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2006年3月15日 (水)

アイドルを語る

渋井(以下、S):ロブさんの処女作「リストカットシンドローム」で、最も気に入っているのが第3章の、精神科医・名越康文さんとの対話なんです。その中で、「女性の身体的意味づけ」について話していますよね。
 リストカットに女性が目立つ大きな理由として、自己愛を表現する媒体としての<身体>という視点を提供しています。手首を切る等の行為によって、<見られる身体>を操作して、自己愛を表現するといった発想でしょうか。
 そう考えると、アイドルも似ているのかなあと。アイドルって、まさに、メディアを通じて、自己愛を表現しているように思えます。特に、ポスト・松田聖子と言われていた岡田有希子が自殺するまでは、自己愛の表現としての<アイドル>がそこにいた。
 しかし、その自己愛は、アイドル自身が持っているもの、というよりは、時代が要求したもの。アイドルはその<箱>だったと思うんです。だからこそ、「アイドルはトイレも入らないんじゃないか?」(笑)と思うほど、自我を殺していたように思えます。だから、アイドルの恋愛ネタはタブーだったし、破局なんてものは今よりも極端に隠されていたように思えます。
 だからこそ、ニュースが流れると、衝撃を与えましたよね。松田聖子と郷ひろみが別れたとき、松田聖子が「今度産まれてきたら、一緒になろうね、と言いました」と、涙を流しながら記者会見したのは今でも記憶として残っています。

ロブ(以下、R):タモリが吉永小百合はウンコをしないと信じていた(いる?)みたいなものですよね。 自己愛というと、アメリカの精神分析の泰斗であるコフートが有名ですよね。名越先生は、カウンセリングの師匠がアドラー派なんですが、アドラーも自己愛という概念を大事にしたそうです。
 まあ、見られる身体を意識するというのは、精神医学的に言えば、離人症的、解離的と言えるでしょう。僕の言葉で言うと、幽体離脱的(笑)。
 そういう文脈で考えると、女性の身体性を操作する究極系がアイドルとも言えなくはないでしょうね。癒し系アイドルというカテゴリーのアイドルほど、ストレス感じているどうですから(笑)

S:アイドルといえば、私が最初に<アイドル>として好きになったのは、河合奈保子なんです。私が自分のお小遣いで最初に買ったレコードは、「ラブレター」という曲なんです。ロブさんは、アイドルは好きになりましたか?

R:いやあ。アイドルネタは大好きです(笑)。最初は、おにゃんこクラブですね。工藤静香にメチャクチャハマってコンサートに何回も行きました(爆)それ以外でも、チェキッ娘っていうグループが数年前にあったのですが、おにゃんこ的でハマりましたね。
 「BLT」という女性タレント雑誌も大好きですし、「サブラ」も。とにかく、電車男のアキバ系的な、擦れてない部分が好きなんでしょうね。自分でも、その辺は自己分析中なんで、「なんでしょうねにしておきます。」(笑)

S:おにゃんこクラブですか。「夕やけにゃんにゃん」発のアイドルグループですよね。素人の参加を積極的にしたり、作詞家の秋元康さんが顔出しするようになったり、まだ無名だったとんねるずをメジャーにさせていく番組として、当時は私も毎日のようにチェックしました。
 工藤静香ですか。おばさんキャラ好きなんですか?(笑)。それとも、歌唱力がよかったからなのですか?

R:あのくしゃくしゃになる笑顔が良かったんですよ。唄ってるときとのギャップがね(笑) 今は、なんかただの元ヤンママですけど((笑))

S:私は、現在はライターをしている新田恵利が一番好きでしたが、「冬のオペラグラス」をソロで出したとき、歌が下手だったなと思って、ファンを辞めました(爆)。その次はグループ内のユニット「うしろゆびさされ組」のゆうゆ(岩井由紀子)が好きでした。もうひとりの高井麻巳子は秋元さんと結婚しちゃって、うらやましかった。
 おにゃんこクラブの登場は、おそらく、素人が、芸能事務所を経て、トレーニングをつまなくても、芸能界に入れる!というムードを高めましたよね。その分、演出をする秋元さんの腕が試されるわけですが。いまでいえば、モーニング娘。のつんく♂の役割です。
 ちなみに、私は、おにゃんこ以前は、河合奈保子から、松田聖子、中森明菜菊池桃子といったアイドルを好きでしたね。菊池桃子は、アイドル雑誌「MOMOKO」創刊のイメージガールでしたね。CDを買った最初も、菊池桃子のベスト盤で、ファンクラブにも入ってしまうほどでしたよ(笑)。
 みんなそれぞれの「虚像」を売りにしていて、いまほどバラエティーにアイドルがでない時代ですから、「素(もしくは、素らしきもの)」に接するのは、芸能マスコミくらいでした。でも、見ても、不思議なこととに、アイドル像は崩れることはなかったですね(爆)。

R:菊池桃子は簿妙な線でしたね。ラ・ムーとかいうバンドも組んでいましたよね?一応、当時からミュージシャン志望の僕としては、アイドルであっても歌唱力は重要でした。
 だから、工藤静香は、作詞に中島みゆきを起用したりして、脱アイドルを目指してたように思います。でも、当時、秋元康の力は凄かったですよね。彼に気に入られること=アイドルみたいな公約みたいだった。
 つんくも彼に憧れていたのは間違いないと思いますよ。僕も、秋元康になりたくて、高校時代に彼の通信作詞講座やってましたから(笑)

S:そんな講座があったんですか・・・。
 季節的に、「卒業」シーズンですけど、卒業ソングはなんですか?私は中学卒業のころ(1985年)は、菊池桃子の「卒業(歌詞はここ)」ですね。好きな人と下校した風景を思い出しながら、4月になると、「都会」に行ってしまう。失恋していない別れの曲です。相手の生き方への憧れを持ち続けるのですね。
 同じ頃、斉藤由貴の「卒業(歌詞はここ)」もあったのですが、そっちは失恋へとつながる。そして、もうあえない、ってことを強調していますよね。全体として、菊池桃子の「卒業」のほうが好きですね。
 菊池桃子の「卒業」の作詞は秋元さんなんですよね。やはり、80年代のアイドルを支えたってことでしょう。斎藤由貴の「卒業」のほうが、松本隆。松田聖子の「制服」や「赤いスイトピー」を手がけた人ですね。恋愛論として、二人は対立していますよ。別れ=失恋なのか、ってことですが。

R:僕の卒業のテーマソングは、尾崎豊の卒業なんですけどね(笑)僕にとっての卒業ソングはチェキッ娘の「抱きしめて」かな。元LUNA SEAの河村隆一が作詞したアイドルソング(笑)SPEEDの「my graduation」も好きかな。
 だけど、80年代は「卒業」というと「別れ」と直結していて「切なさ」がキーワードでしたよね。そういう意味では、松本隆の方が哀愁の入り方という意味で言葉の切なさを感じる曲が多いですよね。
 中森明菜の「二人静『天河伝説殺人事件』より」なんかは狂気的な切なさです。
まあ、アイドルにも歌唱力があれば、顔はイマイチでもっていうのと、歌はイマイチでも、顔が良ければてのがありますよね。個人的には嫌いですが、後者の代表格は、松浦亜弥かな。

S:尾崎豊の「卒業」は、たしか、菊池桃子と斉藤由貴の「卒業」とほぼ同じ時期にリリースしています。私は、尾崎の「卒業」はしっくりこなかったんですよね。ひとつは、男っぽすぎるし、「素(もしくは素らしきもの)」を出しすぎていること。当時、アイドル好きの私には合いませんでした。
 そして、「闘いからの卒業」とか「支配からの卒業」ってのがよく意味がわかりませんでした。今ではイメージとしては分かりますが、卒業しても「闘い」や「支配」はつきまといますからね。
 ただ、自己愛という意味では、尾崎は見事に表現していました。自身の自己愛がファンを引きつけたことはたしかです。彼が亡くなったときは、護国寺で行われた葬儀にも行ったんですが、焼香にファンが何度も並ぶので、終わらないと判断したスタッフたちが、一般の焼香を取りやめましたよね。私はそのために焼香できなかったのを覚えています。
 岡田有希子の死、そして尾崎豊の死。アイドルという象徴は当時、なにかしらの「生きづらさ」を代弁することもあり得るのだ、といったことなんでしょうね。この二人の死は、それを表していたんだじゃないかな。
 そうした時代の後に、SPEEDの登場がある。安室奈美恵山田優を生み出した「ナンバーワンよりもオンリーワン」を目指す沖縄アクターズスクールが注目されるわけですね。「自己愛を「虚像」として表現するアイドル」、つくられたアイドルの時代が終わろうとしていたんじゃないかな。そして、次なる「自分に持っているものを表現できるアイドル」を必要とする時代への過度期がいま、ってことですかね?

R:倖田來未なんかはアイドルではないかも知れないけど、最近のアイドルの傾向を現していますかね。そういう意味では、浜崎あゆみは踏み台だった。だって、造られる自分に違和感を感じつつ、過去のアイドル然とした「虚像」を蹴った。まあ、逆に徹底して虚像化されたとも言えるでしょう。
 でも、だから、今になって自分の立ち位置が不明瞭になって、レコード会社は、自然体の倖田來未に乗り換えてるんじゃないでしょうか?尾崎みたいな自己愛の権化は、かっこ悪いと思われてるようですからね。
 だから、大物アイドルが出てこないというより、世間が欲していないのかも。
AKB48ってのは、アキバ系を狙った市場の小さいアイドルですしね。

S:浜崎あゆみは、自分自身で自分自身を「虚像」にした部分がありますよね。浜崎くるみとしてデビューした当時はまったく売れませんでしたけど、女優としてデビューしたころから今の名前になり、「A Song for XX」等の、いわゆる絶望三部作で、女子中高生の支持を受けました。受ける歌詞というのは、おそらく、最先端ではいけない。みんなが気がつかないから。だから、ちょっと最先端からひいている感覚のものがよかったんでしょうね。「居場所」という言葉も、以前からキーワードとしてありましたけど、このころの中高生にはぴったりだったんでしょうね。アイドル多様化、またはアイドルなき時代に、再びアイドルの可能性を見せてくれたことはたしかでしょうね。ただ、これだけ芸能マスコミもインターネットも「みている」なかで、セルフ・プロデュースとはいえ「虚像」であることの限界があったのかもしれないですね。バラエティでも耐えられる、つまり「虚像」を「素」として感じさせてくれるアイドルとして、モーニング娘。やあややが出てきて、倖田來未が出てきたのではないでしょうか。

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