« オウムの時代 | トップページ | 滋賀・園児殺害事件 »

2006年2月22日 (水)

「オウム的な」私たち

渋井(以下、S):前回の最後で、ロブさんは、オウムとライブドアの共通点について言及しましたよね。両者は「脱社会的な存在」だったのではないか、と。私は必ずしも「脱社会的」とは思えないのですよね。
 オウムの場合、世の中のために何かをしたいと考えていたり、自分を見つめ直したいという思いが、多くの信者の出発点だったのではないかと思います。そうした多の信者の問題と、サリン事件を思考し、実行した人たちとは乖離しています。 
 ライブドアも同じように思えます。多くの社員はIT企業で働きたい、六本木ヒルズで働きたいといった、個人的な要素が大きいと思うんです。しかし、一部の幹部が粉飾決算などの違法行為をした疑いがあります(まだ、ここは起訴された段階なので、不確定要素は大きいのですが・・・)。
 また、オウムが国家の統治機構のような組織にしている点は、ある意味では、「社会的」であると思うし、サリン事件もその統治機構な組織を本物の国家の統治機構にしようとする発想があったとすれば、テロリズムであるので「社会的」あるいは「反社会的」な行為だったんじゃないか。
 ライブドアの場合は、オウムほど「大きく」はないけど、近鉄買収問題や新規参入の問題があっあたプロ野球にある種の談合的な業界に一席を投じたり、ニッポン放送株の取得からフジテレビとの業務提携に至る過程もテレビメディアのあり方について社会に疑問を投げかけた。それはたしかに敵対的M&Aをクローズアップさせた点では、 一種の「テロ」かもしれない。でも、組織作りの意味でもやていることの規模でも、ライブドアはオウムほど「大きく」ない。

ロブ(以下、R):ただ、若い世代に対する影響力という意味では、ライブドアの方が大きかったのかもしれない。もちろん、オウムは宗教団体だから、世代を超越した人々を影響下に置いていた。しかし、どちらも既存の価値観、日本的社会システムに「NO!」と言う人たちを巻き込んだという意味では同じ穴のムジナという感じがします。
 もし、両者ともにトップの人物が触法行為をしなければ、どちらも終身雇用などの日本的システムの壊し屋として手を組んでしまう可能性もあったでしょう。それくらい両者は相似形な気がします。

S:うーん、まだ私はライブドア問題をきちんと総括しきれていないので、何とも言えないですね。いずれにせよ、オウムは、その時代の生きづらさのはけ口の一つだったように思います。
 オウム信者たちは、多かれ少なかれ、「終わりなき日常」を、まったりとすごせなかった、ある種の「生きづらさ系な人々」だったと思うんですよ。その意味では、私も同一線上にありました。
 しかし、私は、宗教活動にも、政治活動にも、市民活動にも、それを打開するもの見いだせなかった。かといって、まったりすることもできない。「オウム的な」心性はあったにせよ、実際の「オウム的な」ものにはひかれなかった。
 さらに、援助交際や家出などの、わかりやすいアクティングアウトもできませんでした。曖昧な意味での自殺願望、あるいはリセット願望はありましたが、自傷行為などもしてませんし。時代はテレクラや援助交際の全盛期でした。私が大学生までは、漠然とした生きづらさを感じていただけかもしれない。
 なんらかのアクティングアウトができたのは、長野県で新聞記者をしていた頃でしょ うか。知り合いのいない場所だったし、寂しくて、ツーショットダイヤルやパソコン通信、インターネットにはまったりしましたから。
 ちなみに、長野県は全国で最後のテレクラ規制条例ができたのですが、そのとき、規制反対の連載記事を書きました(爆
 ロブさんはたしか、アクティングアウト(行動化。本人の心的葛藤や抵抗が、いわゆる「逸脱行動」等の言動に表れること)をしていましたよね?

R:アクティングアウトが激しくなったのは、大学2年から3年に掛けてですね。もう、思いだすのも嫌なくらいな大失恋をして、一ヶ月間、廃人状態でした。
 それで、「同じように壊れるのなら、どこまでも」という自暴自棄になって、違法ドラッグ、テレクラ、逆援交とどんどん自分を壊して行きました。まあ、オウム的な文脈で言うと修行でしたね(笑)
 どんな辛い状況においても自分が壊れないようにするのが狙いでした。ただ、逆援交で真剣交際になりかけたり、ドラッグをやって幻覚を見て、虫が見えると言いながら腕を切り裂きまくる人を見て、僕のアクティングアウトは沈静化していきました。沈静化というより、強制終了です。
 ドラッグは、かなり末期症状まで来ていたので、アパートのベッドに自分の腕を手錠をつないで、薬が抜けるまで二、三日地獄を味わいました(苦笑)。精神科医の名越先生に告白したら、「精神病院に入院した方が、絶対楽やったわ」と言われました。大阪で、アルコール、薬物中毒患者などを中心に診る精神科救急の先駆者的精神科医から見ても自我を保っているのはおかしいらしいです。
 まあ、そんな感じで、僕のアクティングアウトは完全に修行です。その後に、オウムの人たちと自分の類似点が見えてきたんです。
 でも、こういうのをアクティングアウトと言うんですかね?

S:かなり激しいアクティングアウトだと思いますよ(爆)。ただ、ドラッグをやって幻覚を見て、虫が見えると言いながら腕を切り裂きまくる人を見て、沈静化するのはなんとなくわかるような気がします。本当に壊れてしまうかもしれないですからね。でも、なぜ逆援交で真剣交際になりかけて、沈静化するんでしょうか?

R:駆け落ちを持ちかけられて、それを承諾するまでの勇気はなかったんです。ドラマみたいな勢いはないですよ。
 そもそも、考えながら行動する性分ですし、理性で衝動を抑えるのも一つの修行だったと思います。一方では、自分の限界を身を持って知ったから、僕のアクティングアウトは沈静化していったんです。


S:そうしたアクティングアウトが大失恋がきっかけというのはわかりやすいのですが、なぜオウム的なものにひかれたのに、たとえば新興宗教に向かうといったことはないわけですよね。オウム的なものと自分との違いはなんですか?

R:否、似ているでしょうね。犯罪レベルにまで手を染めてたんですから(苦笑)本当に紙一重だったでしょう。宗教に走らなかったのは、自分は無神論者だったというのが大きいかな。
 でも、僕の倫理的な部分では祖父母に教え込まれた仏教的要素が大きく支配してるから、僕が衝動的な行動を取る人間でなかったら、新興宗教に入信していた可能性もあったと思います。

S:衝動的な行動か〜ぁ。私もそうした衝動的な行動はたまにありました。そうした衝動によって、ちょっとした「反社会的な」行動にはなったとしても、「オウム的な」ものにはまらなかったってことなのかも。ガス抜きが必要ってことかもしれないですね。
 でも、いまの社会では、メディアやゲーム、ネット規制が強化されたり、夜間外出の制限がされたり、共謀罪(適用罪状はここ)導入されてしまうと、余計にガスがたまってしまいます。もしかすると、もう一度、似たような事件が起きてしまうってこともありえるような気がしてきました。

(060220までのメール交換)

|

« オウムの時代 | トップページ | 滋賀・園児殺害事件 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/35707/725030

この記事へのトラックバック一覧です: 「オウム的な」私たち:

« オウムの時代 | トップページ | 滋賀・園児殺害事件 »