2006年9月19日 (火)

山口・徳山高専女子学生殺害事件 

渋井(以下、S):久しぶりの更新です。
 いろいろ、少年事件で報道がにぎわっています。そんななかで、山口県徳山高専・女子学生(20)殺害事件がありましたね。最終的には逮捕状が出ていた少年(19)が遺体で発見されました。報道によると、自殺で、遺書もなく、殺害動機がわからないままになってしまった、ということです。
 新聞や雑誌等を見ても、友達や家族、学校関係者などいろいろ周辺のコメントは出ていますが、どれも状況証拠的なコメントであって、事件につながるような決定的な動機のようなものはありません。
 やはり、遺族もそうでしょうが、この事件がいったいなぜ起きたのか、動機はなんだったのかを知りたいでしょうし、この事件をニュースとして消費していた私たちも不完全燃焼だったように思います。男女関係のトラブルという一般的な見方で落ち着いたとしても、なぜ殺害しなければならなかったのかは、やはり、見えてきませんし。分からないものは分からないでいいとは思うのですが、分からないと不安になる人もいることだろうし。

ロブ(以下、R):この事件もそうですけど、殺人事件で、人を殺している最中の精神状態なんてまともな状態だとは考えられません。だから、僕は精神鑑定などはあまり動機解明に つながるとも思わないし、状況証拠から、評論家やメディア精神科医が推論を展開するのは無意味な安心感を与えるだけだと思うんです。
 それと、週刊新潮が、実名報道した意味も今イチわからない。まあ、犯人の少年が発売時点では発見されていなかったから、指名手配的な意味合いがあったとも言えます。しかし、2chなどで喧伝されるご時世を考えると、実名報道は、犯人を追い詰める方向にしか向かない気がするんです。それは、少年犯罪だけでなく、成人の犯罪も同様です。
 また、少年の部屋から、アダルトビデオが出てきたとか、その内容が過激なものだったとか、そういういかにも犯罪に結び付きやすいものだけが見つかって、それが犯罪の原因であるという図式は、動機の解明とは言えないでしょう。だから、僕は死人に口なしで、余り今回の事件で、動機解明は不可能だと思っています。


S:たしかに、動機解明は不可能です。本人がなんらかの殺害計画や殺意を示したメモとか、ブログが見つかると、多少分かったりしますが、それだとしても、実際に実行するかどうか別だし、そう書いていても、殺さない人もいますからね。
 安心感を与えるというのは、意味のあることとしては、日常生活を送って行く上で、すべての少年が危険ではない、あの事件は特種なんだと理解できて、「テレビの中の出来事」として処理できるところでしょう。しかし、自分たちとは関係のないところで起きたとして、自分の立っている世界と切り離し、別の世界の出来事としてしまうことで、事件が「社会」の中で起きたことを忘れさせてしまうことでしょうね。
 このあたりは、難しいんですよね。下手に、動機不明な事件として不安を煽ってもいけないし、へんに理屈をつけて、わかりやすい事件にしたとして、安心感を与えるのもおかしい。
 実名報道のことですが、私が特に意味がわからないのは、理由です。読売新聞は、「容疑者が死亡し、少年の更生を図る見地で氏名などの記事掲載を禁じている少年法の規定の対象外となったと判断したことに加え、事件の凶悪さや19歳という年齢などを考慮し、実名で報道します。 (2006年9月7日23時51分 読売新聞)」としていました。
 この論理だと、実名報道=更生を図ることからの除外、ということになります。ということは、犯罪報道における「実名報道」は、更生を無視し、社会的制裁を重視している、ということになります。もし、そうであるならば、推定無罪の原則から外れてしまいます。実名報道の理由は、捜査が適切に行われ、誰が逮捕されたのかがわからないと警察権力をチェックできない、というものだったように記憶しています。その理由からも外れます。 
 その意味では、まだ週刊新潮の方が理由は明快です。「凶悪事件において、犯人の身柄確保以上に優先すべきことがあるはずがない。そのための実名と顔写真の公表は犯人の『自殺・再犯』の抑止にもつながる」と記事に書いてあります。
 つまり、その是非はともかく、そうした理由に一般論として、一定の説得力はあります。顔と名前が分かれば、潜伏していても誰かが通報してくれるんじゃないか、と漠然と思えます。立場も、人権よりも「捕まえるため」を重視した報道というものになる。まあ、警察の広報になりましたとの宣言です。しかも雑誌なので、見たい人だけ買えばいい。
 しかし、2chですでに晒されていたり、メディアで流された場合、心理的に追いつめる作用ももちろんあるでしょう。ただ、今回の場合だけみれば、そんな余裕はなかったように思えます。
 「レイプもの」のアダルドビデオが押収された、との記述もありましたが、もともとそうした性癖なのか、ビデオの影響なのか、あるいは、犯罪のヒントになったのかなどは、今後も一般論としては議論されるでしょうし、今回の事件でも推論は述べられるかもしれません。しかし、だからとって、ビデオが犯罪を誘発した、という話になれば、安易であることはゆがめない。もし、ビデオが即、犯罪を誘発するのなら、もっと起きてもおかしくはないしね。
 ただ、今回の事件で、警察の捜査手法が問われるかもしれません。結局は公開捜査をせず、実名・顔写真を発表しませんでした。警察庁の通達では、凶悪犯罪で再犯のおそれがある、社会的不安があるようなケースは公表できるような内容になっている。なぜ、適用しなかったのか。この適用の是非は議論されることでしょうね。しかし、その適用の是非と、実名報道の是非は別です。「警察が発表したから」という理由ではなく、報道機関は独自の基準を持つべきでしょう。

R:ビデオの影響論で言えば、日本ビデオ倫理協会(以下、ビデ倫)の許可を得ないインディーズ系ビデオが増えたために、ビデ倫の審査が甘くなって、アナルなんかもモザイクなしでもOKになってきました。この流れだけを見ると、性の規範が乱れるとか何とか言い出す連中が出てくると思います。
 しかし、ビデ倫を事態の経済的事情が絡んでいて、アダルトビデオのインディーズシーンにも介入して、審査料を取ろうとしているのは見え見えです。確かに、アダルトビデオのインディーズシーンが無法地帯化しつつあるでしょう。しかし、過激な内容を取り締まれば、また次の抜け道が出てきて、いたちごっこです。だから、アダルトビデオ規制の動きが出るのは木を見て森を見ずと言えるでしょう。
 警察の捜査手法もそうですが、また少年法の壁が議論の対象になるのではないでしょうか。社会更正という意味では、非公開が良いのかも知れませんが、事件の種類によっては、少年法適用外というのも超法規的措置として考えなければならないと思います。
 もちろん、マスコミ側も警察のリーク情報を流すのではなく、独自の基準で事実を報道する姿勢が必要となっていると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月11日 (火)

W杯現象

ロブ(以下、R:サッカーのW杯が終わりましたね。僕は、野球が好きなので、寝不足になってまで観戦しませんでした。でも、日本が負け続ける度に、にわかサッカーファンが消えていきました。  前回の日韓W杯では、香山リカさんの「プチナショナリズム症候群」(中公新書ラクレ)でW杯に 燃える若者たちの動きを右傾化ではないかと指摘していました。
 今回もかなり、その右傾化傾向はあるのではないかと思われましたが、やはりJリーグの盛り上がりが示しているように、にわかサッカーファンによる、サッカーブームが起きただけに感じました。
 渋井さんは、W杯ご覧になりました?

渋井(以下、S):私もW杯は見ましたよ。日本戦も三試合とも見ました。それと、チェコとアルゼンチンを応援していたので、その関連試合はなるべく見ていました。野球のWBCも見ましたが、野球のときは日本を応援していたですね。
 にわかサッカーファンはたしかにいると思いますが、それ自体は悪いことではないと思いますよ。にわかファンが本物のファンになることもあるし、にわかファンが祭りを楽しむことだって、悪いわけじゃない。
 中学の時に野球部、高校の時にはサッカー部、のちに陸上部だった私ですが、野球やサッカー、陸上を知らない人にも、試合をみてもらいたいって発想も、当時からあったので、にわかファンはそれなりにいてほしいです。
 ただ、今回のW杯の場合は、にわかファンを当てにした視聴率合戦があったことはすでに言われています。そのため、日本の試合が3試合のうち2試合がゴールデンタイムになるべく近くした時間でした(日本時間で午後10時)。ちなみに、ブラジル戦は、ブラジルのゴールデンタイムに合わせていたようですが。そうした視聴率合戦によって、選手には不利になりかねない条件になったことはあるでしょうね。
 右傾化という話ですが、たしかに、こうした現象は政治にもみられます。衆院千葉七区の補選も、民主党の候補が勝ちましたが、20〜30代は自民党の候補に入れたと言われています。しかし、2ちゃんねる等でもみられる右寄りの書き込みは、思想的に「右」というよりは、「右」であることで祭りに参加できる、といった現象ではないかと思います。

R:テレビの視聴率合戦によって、日本の実力が過大評価されていた面はあると思います。 その結果かわかりませんが、孤軍奮闘した中田が引退してしまった。最後まで諦めないという個性が生かされたといえば聞こえが良いですが、やはりジーコ型の個性尊重は日本の選手育成には適していなかったということでしょう。
 野球もサッカーも、参加する事じゃなく、やっぱり結果が大事だと思います。ゲームの中で、ルールを守ってやるのだから、結果が出なければ意味がないと僕は思っています。
 そういう意味では、ジェフ市原のオシム監督が、二年でも走るサッカーを叩き込めば、日本は変わると思うんです。右傾化したような祭り現象でも、日常から離れることはストレス発散になりますしね。
 しかし、司令塔であった中田が”自分探しの旅”に出るのは意外でした。一般人レベルでは、死語と化していた”自分探し”を中田が言い出したのは、日本に戻りたくない、日本の低レベルなマスコミと関係を持ちたくないというのもあるでしょう。海外でサッカー選手として成功した中田ですが、イチローほど雄弁ではない。だからこそ、中田はサッカーから離れるのかわかりませんが、指導者になるのか、タレントになるのかどういう方向へ向かうのか休みたいのでしょう。
 しかし、自分探しがブームにならないことを祈るばかりです。まあ、メンヘラーが彼らの自分探しのエンパワーメントの材料として彼の言葉を引用しないとは思いますけどね。

S:日本の実力を過大評価しなければ、ならなかったのでしょうね。そうしないと、番組づくりができなかった。バラエティー番組でも、W杯にからんだものが多かったのですが、それは、笑いのネタが自ら産み出されるものではなく、W杯本番への予告にすぎなかったのでしょうね。
 中田引退は、私としてはどうでもいい話です。たしかに、日本サッカーをリードした存在として評価すべきでしょう。しかし、プレイスタイルが特に好きでもない。それに、プロであれば、エンターテイメント性も兼ね備えることも求められ、イチローはそれができていますが、中田はできなかった。
 日本のマスコミが低レベルと思っていたのかどうか。結局、中田だって、マスコミを利用していたわけで、ある意味、共犯関係だったと思います。日本のスポーツ・ジャーナリズムはたしかにレベルが高いとは言いませんが、壁ばかりを作ってしまっては、余計にスポーツをきちんと報道できなくなるとは思います。私としては、中田の態度が逆にレベルを低くさせた面もあるんじゃないかと。
 自分探しの旅発言も、古いと思いました。たしかに、死後に近い言葉です。しかし、それが中田の感性だったのでしょう。ブームの再来があるかどうかですが、いまのところ、それを乱用する人はいないですね。私の回りでも、ギャグで使う人しかいませんし。
 ただ総じて、視聴率ばかりを狙ったスポーツ・ジャーナリズムは考え直さないといけない。いまや、巨人戦も視聴率10%を切ってしまい、フジテレビは原則、巨人戦を打ち切り、と発表しました。そうすると、余計に巨人ファンや野球ファンは離れていくような気がします。サッカーだって、普段のJリーグは深夜枠で録画放送が多くなっています。スポーツを生で見る習慣がなくなれば、さらに視聴率低下を生みます。しかし、サッカーのW杯だけが浮き足立つ結果を招くんじゃないでしょうか。

R:巨人ファンとしては、フジテレビの決断は痛かった。しかし、故障者がどれだけ出るかというところまで、原監督がある程度計算していれば、6月以降の失速はある程度は抑えられたと思うんです。でも、フロントが元阪神のアリアスなんかをメキシカンリーグから引き抜いてくるのが、自虐的にしか見えません。
 スポーツを生で見るという感覚は、かなり薄れてるんじゃないでしょうか。それは、音楽のライブに行く人が少なくなっているのを見ればわかります。生で見たいと思うのは、熱狂的なファンか、祭りみたいな一体感が欲しい人でしょう。
 今は、ネットでもスポーツ中継見られますし、HDDレコーダーの普及で、生と遜色ない画質で見ることができる。DVDの普及も関連しているでしょう。そう考えると、生でスポーツ観戦みたいなのはどんどん減っていくのではないでしょうか。
 日本ハムの新庄並のエンターテナーが野球界に表れないと、テレビやマスコミも小ネタとして使えるものがなくなってしまいます。プロスポーツは、真剣勝負も見どころの一つですが、エンターテイメントとしての面を持った実力を伴った選手が出てこなければ、視聴率が上がることも、観客動員数が上がることもないでしょうね。

S:スポーツを生で見る感覚が薄れているとは必ずしも言えません。
 http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/kankyaku.htm#00-01
 これは、プロ野球の観客動員数ですが、プロ野球全体としてはやや増えています。特にパリーグは増えています。やはり、テレビ観戦が、動員数が伸び悩んでいる巨人戦がメインになっていることが原因のひとつだと思うんです。ちなみに、巨人は、空席が目立つため、関連会社にチケットを配っているが、それでも入らないという話を聞いています。
 ただ、Jリーグの場合は、
 http://www.j-league.or.jp/aboutj/katsudo/douin.html
 のように、観客動員数は減っています。
 観客動員数の数字だけみれば、サッカー人気は落ちていて、野球人気は変化はありません。とくにテレビメディアが、「虚構」であるサッカー人気を過度に盛り上げていることがわかります。

 こうした数字をコアと考えた場合、コアファンの変化がないプロ野球と、コアファンが減少しているサッカー。こんな時に、テレビが煽れば、余計にサッカーのコアファンはテレビから離れていくでしょうね。しかも、タレントの安易なコメントはしらけさせるでしょうね。そして、いまさら、「私たちは中田を何もわかっていなかった」的な番組さえある。自作自演とも言える状況ですね。
 エンターテイメントとしては、たしかに、にわかファンを含め、コアではないファンを獲得するのには必要です。新庄はそうした人の一人だしね。でも、新庄なきあとの日本ハムはどうするのか。ある札幌人は、新庄がいなくても日本ハムを応援すると言っていました。ただ逆に、楽天のように、弱くても、新庄のようなエンターテナーがいなくても、かつての弱かった時代の阪神のように極端に観客動員数が減りません。
 確実にいえるのは、巨人ファンを中心としたプロ野球報道や、日本代表を中心としたサッカー報道は行き詰まっていることが言えるでしょう。W杯のような一時的な「祭り」での視聴率合戦をしていれば、中田のように口を閉ざす選手も今後、出かねないですからね。

R:阪神に関しては、阪急との経営統合で、去年の村上ファンドによる買収騒ぎみたいに、 コアなファンを怒らせないで欲しいですけどね。楽天、阪神ファンが熱狂的なのは、楽天は念願のプロ野球球団の誘致成功、阪神は、関西人=阪神ファンみたいな公式化された教えを小さい頃から受けてる人が多いですよね。ただ、他の球団は、エンターテイメントやスター選手に頼らざるを得ない状況があります。
 しかし、巨人は、李が目立ってるモノの、他の高橋由伸、故障中の小久保などスター性という意味では如何せん小粒なのが多すぎる気がします。上原もそんなにスター性があるとは言えませんしね。
 僕が小学生の頃は、原、クロマティ、中畑などスター性と実力が伴った選手がいました。 ピッチャーなら、斎藤、槙原、抑えの鹿取など地味ながらも見ていて、野球選手に憧れたくなる選手が巨人にはいた。それが、今はいないのが、人気低迷の一つの原因だと思います。
 一方、サッカーは、海外進出組以外は、スター性のある選手が全くいない。スター性とは、サッカーファンでもない人ですら知ってるレベルだと思います。それは、野球でも同じ。サッカーは、チームがホームグラウンドを転々と変えたり、J2からJ1昇格チームの情報が少なかったり、偏ったスポーツ報道にも問題があると思います。
 だから、中田なき後に、サッカー人気の真価が問われるのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月28日 (水)

サポートする側をサポートすること

ロブ(以下、R):自殺問題に限らず、ケアする仕事全般に欠けている意識として、サポートする人をサポートするというものがあると思います。精神科領域で言えば、スーパーヴァイズになるでしょう。
 専門家の場合はカンファレンスなど様々な場で、悩み、問題などを開示することによって アドバイスを受けることができます。ただ、自傷癖者、自殺志願者の周囲の人間は精神科医やカウンセラーから対応について 聞いても、悩みを抱え込みすぎる場合があります。
 さらに、元自傷癖があった人、自殺志願者だった人が相談に乗って再発したり、同じ悩みを持つ人たちがピアカウセリングなんて美辞麗句に踊らされて、自助グループを作って、逆に悪化することの方が多いのではないでしょうか。
 そういう点を踏まえると、自殺対策基本法問題にも通じますが、サポートする人をサポートする制度が必要ではないでしょうか。

渋井(以下、S): ロブさんのいうように、自助グループに参加して、かえって、各依存の方法をみにつけたり、情報を得て、悪化した、との話を私も聞いたことがあります。とくに、自助グループは、匿名的な関係が保障されることが前提であることが多いですよね。そうしたグループでも、構成委員がケータイの番号やメールを交換してしまって、日常的にもつながってしまいます。そのような場合、日常的に引きづり混まれてしまう・ひっぱりあいをしてしまうことも聞きます。
 こうした問題は、専門職の人たちに見えないかたちで進行していきます。デイケア等の病院仲間という場合は、ある程度関係は見えますが、しかし、関係してしまったことによる相互作用は未知数です。いわゆる、ピアサポート的な感じになる場合もああったりしますが、そうでもない場合も多いのではないでしょうか。
 一方、自傷癖のある人、自殺志願者、また、その周辺層である、各依存症者たちの周囲の人たちは、いるだけで精神的に負担がある場合があります。たとえば、家族だから支えなければならない、とか、恋人だから一緒に乗り越えようとか。そう思えるうちは、サポートしようと思えるのでしょうが、そうした周囲のひとたちも疲れて来てしまいます。共依存だ、と言えばそうなのでしょうが、「共依存」と名付けたことによって解決するものでもないですよね。
 サポートする人とは、結局、ある問題を抱えた人について、その問題を一緒に解決しようとする周囲の人たち全般を指します。しかし、それが専門職であれば、仕事だと割り切れ、時間になれば終わることができますし、それが当たり前として認識されるべきでしょう。また、様々なグループでの活動であれば、うまくネットワークをいかし、役割分担をしていくことで、個人がかかえた問題は解消する方向にいくかもしれません。しかし、日常的にそうした人たちと接する人たちは、休みもありませんし、孤立する時間帯は必ずありますよね。でも、サポートする人をどのようにサポートできるのかってのは、難しい問題ですよね?

R:周囲の人間の苦悩の代表的なものをあげれば、介護鬱でしょうか。うちの母は、ホームヘルパーをやりながら、同居している父親の母親を面倒見ていました。去年の1月になくなるまでプライベートと仕事がごっちゃになってて、愚痴の電話が耐えませんでした。僕自身。サポートする側ですが、そのサポートをさらにサポートされることは個人的には考えたことはありません。
 でも、そうした意識が「慣れ」になって、サポートとして成立しなくなるときがあります。そういうことを減らすためには、サポートする人の精神衛生上、精神科や行政が、周囲の人間のサポートまで視野に入れた方が良いと思います。自殺遺族会、全家連みたいに大きなものじゃなく、もっと地域レベルでサポートする人の
援助が必要だと思います。
 サポートしすぎる人は、共依存でしょうね。だから、家族であっても適度な距離感を保たないと、人格障害なんかは巻き込まれてしまう。だから、適度な距離感、空気の読み方など、専門家のアドバイスもありつつ、実際にサポートする人たちが「こんな、我が家の秘伝もありますよ」とか話し合えたらいいなと思います。

S:「我が家の秘伝」って発想は面白いですね。
 ただ、ちょっと思うのですが、たしかに、依存する人を支えてしまう共依存の人はいるんでしょう。また、過度な干渉をしてしまうようなある種の人格障害の人とかもいますよね。しかし、共依存や人格障害なんか、普通の人たちは認識していない。普通に、ある人を支えたい、と思ってる。共依存や人格障害という名付けをすることで、相手との関係性を見直して、適切な距離をとろうとすることもあるでしょう。一方、名付けられたことで、それを正当化してしまったり、そもそも名付けて、「あ、そうなんだ」と思うだけの人もいるでしょう。
 多くの「普通の人」は、名付けと無関係に生きていて、ただ相手と一緒にいたい、相手を支えたい、と思っているんだと思う。そうした人たちに向けて、何ができるのだろうか。名付けることを意味を分かる人はいるでしょうが、そんなこと関心がある人がどこまでいるのだろうか。
 そうした「ごく普通のサポートする人」を想定するときに、いったい、システムとして何ができるというのでしょうか。治療的介入を拒む人たちにはどうすればよいのか。いわゆる、非援助という援助もあります。
 最近では、家族問題だけでなく、恋愛問題で、そうした距離感の問題を訴える人が増えて来ているように思います。恋愛論ブームは、そうした下敷きもあるんじゃないかなと思います。そういえば、ロブさんも、パートナーとの関係性は、恋愛から家族へと移行したと思うのですが、恋愛時代に、なにか感じましたか?

R:恋愛時代は、それ程援助ってしてなかったと思いますよ。救ってあげようという意識は、意外に薄かった。とにかく、自分の好きな人がどういう状況で、千差万別の症状を見せるのに対して、あまり構えないようにしてました。
 僕の先方は孫子が基本ですから。モグラ叩きゲームみたいなもんで、病気になって3ヶ月間は、いきなり奥さんの家族関係に切り込んでいくという大胆なことをしました。
 今思うと、「マニュアル化はできねぇな」と思います。自分で言うのも何ですが、サポートする人は相手が好きであるという状況から、共依存へ移行するのを自覚できません。この辺を自覚させるのは、専門家の領域でしょう。
 だからこそ、サポートする人の精神状態を支えるのは、むしろ何もしない方が良い。さりげない会話の中で、少しだけ聞いてあげるとか。僕は、メンヘルを知らない友人達に助けられてきたのは、知識がないからこそあえて、突っ込んだ話はしない点にありました。今まで通り、たわいもない会話ができる状況が、簡単にできる。サポーターをサポートすることだと思うんです。
 だから、周囲のまたその辺縁にいる人は、病気のことを記号だと思うくらいでいいんじゃないかと思いますね。渋井さんの言うように、「非援助」って考え方もあると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月21日 (水)

自殺対策基本法

渋井(以下、S):久しぶりの「対談ブログ」更新です。もう6月末なのですが、このブログの複数の読者から「5月病で止まっているのですが、5月病なんですか?」とか、「5月病で終わっていますが、もう6月ですよ」等と指摘されたので、再開いたします。

ロブ(以下、R):五月病になる暇もなかったんですけどね(笑)

S:さて、今回は、「自殺対策基本法」に関して話しましょう。NPO法人「自殺対策支援センター ライフリンク」が立法化のための「3万人署名」をして、私も「賛同人」になっていました。
 法律は「基本法」のため、具体的に何をするのかは明示されていません。じゃあ、なんのために?となりますが、ここで重要なのは、基本理念です。

 「自殺対策に関し、自殺の背景に様々な社会的な要因があることを踏まえ、社会的な取組として実施されなければならないこと、単に精神保健的観点からのみならず、自殺の実態に即して実施されるようにしなければならないこと、自殺の事前予防、事後対応等の各段階に応じた効果的な施策とし て実施されなければならないこと、国、地方公共団体、医療機関、事業主、学校、自殺の防止等に関する活動を行う民間の団体等の相互の密接な連携の下に実施されなければならないことを内容とする基本理念を定める。」

 ここで、「単に精神保健的観点のみならず」としているのは、たしかに、自殺の背景には鬱病等の精神疾患などがあることは言われています。しかし、他の要因も見逃せないし、そもそもその鬱病も労働問題や教育問題、家族問題、友人知人との問題、結婚・離婚、失恋などが絡み合っています。そのため、単に病気の結末としては自殺を一面的にしか捉えていないことになります。
 さらに、

 「国は、基本理念にのっとり、自殺対策を総合的に策定し、及び実施する責務を有する。地方公共団体は、基本理念にのっとり、自殺対策について、国と協力しつつ、当該地域の状況 に応じた施策を策定し、及び実施する責務を有する。」

 とあり、自殺防止は国や自治体の責務だとして点です。これまで自殺防止の所管ははっきりしませんでした。たとえば、自殺予防のために、ある地域での自殺統計等は全体の数字はありますが、これまで個別にはありません。そのため、どのような問題が解決できれば、自殺は防げたのか、といったシュミレーションはできないものになっていました。また、司法解剖でさえ警察の独占業務であり、他の行政機関との連携はなく、その結果を公衆衛生に活かすことはありませんでした。
 私はこの二つが明記されただけでも、自殺予防にとっては一歩前進かなと思っています。ロブさんは、どのようにみていますか?

R:まず、自殺をする前の精神状態については、精神疾患、特にうつ状態に関しては、疫学的な調査で証明されています。でも、渋井さんが指摘するように、対人関係の悩みなどうつ状態になる前の要因探しも大事だと思います。それを、行政ができるかいささか疑問です。
 それと、行政機関の連携ですが、警察や救急隊などの連携が地方に行けば行くほど取れていない状態をどうするかが課題です。

S:対人関係の問題を、直接的に行政機関が関与することは、日本の行政の仕組み上、難しい問題があります。恋愛や転職、友人関係それ自体に関与することは難しいですよね。しかし、間接的には、たとえば、過酷な労働があるのならば、労働行政が、虐待等があるのなら、福祉行政が関与する義務が生じます。学校でのいじめ等があれば、学校がこれまでよりも対策をとる必要がでてきます。企業でのメンタルヘルスも同じことが言えます。
 最も閉鎖的な学校が何ができるのかが問われることが多くなるかもしれません。いじめ自殺で、いじめの認知を認めないことも多いし、カンニング自殺がありましたが、ああした問題を学校の責任をどこまで認めるのかも問われることでしょう。

R:この前、電話を掛けてきた女の子が茨城県で自殺を遂行中で、電話の話で必至に薬を飲ませないように僕が頑張って、妻が救急隊を要請しようとしました。
 そうすると、神奈川の消防隊から「市町村合併で、どこの所轄かわからないから茨城の消防本部へ連絡して」と言われた。そして、妻が連絡すると、渋々、消防車が出て、僕が話している間に救急車のサイレンが聞こえたので「安心して、言ってきて」と言って電話を切りました。
 東京近辺なら、数分で救急車か警察が出動するのに、首都圏の茨城県では、出動までに数十分掛かった。一刻を争う問題に、初動時間の短縮は欠かせません。法整備が整うのは結構なのですが、民間と行政の連携もしっかりしてもらいたいですね。

S: 市町村合併もいまは過度的なので、連携などが不十分なことがあるのですね。こうした問題は、市町村合併が落ち着いてくれば、なんとかなる問題も含まれるのでしょう。でも、初動もそうですが、受け入れ病院が決まるまでの時間も問題ですよね。特に深夜は、初動が遅い上に、病院がなかなか決まらない。
 法整備だけで自殺が減るわけではないことは、私もロブさんも同じだろうし、法整備のために、署名活動を中心にしていたNPOも思っています。しかし、この法の意味は、これまで義務でもなく、法的根拠もなかった「自殺防止」が、はっきりと行政の仕事になったことです。これは一歩前進でしょうね。
 逆に心配なのは、特に自殺願望のある若者の中には、「自殺防止」を責務とした行政機関や病院をどのようにみるかです。法律の中には、自殺願望者の早期発見・早期治療が掲げられています。まるで、「がん」と同じです。たしかに、衝動的な自殺願望があり、そうした衝動を止めたいと願う人にはよい項目ですが、長年自殺願望があるような人には、抵抗感があることでしょう。ここが一番、難しいところですよね。

R:救急車要請してから、なかなか病院が決まらないのは大問題です。僕の知り合いの若い精神科医が、府中市にある精神病院で通院患者の容態が悪化して、自殺企図をして急変したので受け入れて欲しいと、練馬区から連絡があったそうです。
 でも、距離的にも受け入れは難しいと判断して断ったら、電話越しに救急退院が患者に「ベットが一杯だって、断られちゃった」と言ったのが聞こえたそうです。救急隊は医者以上に、非常事態に慣れすぎてしまっていて、デリケートな問題という意識が少ない。
 さらに、医療観察保護法と同じように、長期間、自殺企図を繰り返す患者を拘禁してしまおうという流れが出てきてもおかしくはないでしょう。精神科の慢性病床患者を、減らすという目標も厚生労働省は掲げています。
 しかし、社会復帰の練習の場である作業所の数が地方では足りない。それに、老人になってしまった人まで社会復帰させるのは難しい。
 行政の介入できる範囲をある意味明確に決める部分と、曖昧にして精神科の現場に任せるのが今できる精一杯の緊急時における自殺対策でしょう。
 あと民間の介入は、暴力的なひきこもり矯正で有名な長田百合子の妹が起こした、殺人事件に至る場合もある。民間業者が、自殺志願者を引き受けるという資本主義原理は望ましくないと思います。
 まあ、願わくば我々のようなメール相談にも国が助成金を出してくれれば良いんですけどね(笑)

S:たしかに、社会政策の問題としては、各機関の連携がうまくいくかどうか。自殺者数が減少していくかどうか、ということが重要になりますよね。しかし、当事者やその周辺の人たちにとっては、法があろうが・なかろうが、自分たちの状況をどうにかサポートしてほしい、ということがあるでしょうね。
 たとえば、ある自殺志願者がいたとして、志願者は「死にたい」と、周囲の人たちは「死んでほしくない」と思っている。そうした環境はストレスフルなわけです。そうしたストレスをどのように改善できるのか、だと思います。特に、自殺志願者をサポートする人はいたりしますが、サポート役をサポートする人は少ないと思います。
 また、いま出されている行政や病院等の連携は、いわゆる勤務時間内の話であり、おそらくは昼間の業務を中心に考えられていると思うのです。しかし、志願者の心理の変化は時間を選ばないし、かえって夜に気持ちが変動し、気分が落ち込んだりします。そうした、いわゆる勤務時間外だったり、人手がすくない時間帯でも、どのようにサポートできていくのかが重要だと思うんですよね。
 自殺防止というのなら、自殺防止への期待感がなくてはなりません。ロブさんが示したように、救急退院のデリケートのなさは、警察や救急医療の現場でもあるのですが、そうした発言があるだけでも、期待感はなくなります。また、「いのちの電話」等の電話相談も、時間帯によってはつながりにくいです。人によっては「かけたことがあるが、つながったことがない」のです。そうしていくうちに、自殺防止システムへの期待感は薄れていきます。
 民間の介入問題は、たしかに指摘する通りです。そして、行政か民間かを問わず、独立してチェックできる、たとえば、「自殺問題オンブズマン」のような、独立機関が必要になっていくことでしょう。

R:そうそう、サポートする人をサポートするシステムは忘れ去られていますよね。よく、 「そんな思い相談に乗っていて、ストレスは溜まりませんか?」って聞かれるんですけど、表面上はないんですよね。夜回り先生レベルで受け取らないし、寝たら知り合いじゃない限り、うつ状態まっしぐらってのはない。
 でも、無意識に溜まってるのは確かで、高血圧は肥満からより、精神的なものが大きいんじゃないかって。まあ、たまたま、精神科医にも弁護士にも知り合いが増えてきたんで、現実的な対策を検討することによって、精神的ストレスは軽減されています。
 あと、いのちの電話のマンパワー不足は解消しなくてはならない状態でしょうね。東京近辺と大阪市か24時間対応してませんから。だから、夜の11時以降にメールが「助けて」メールが増えるのではないかと思っています。個人開業のクリニックで可能な限り、携帯電話対応するとかしていかないと、今年も増えるのは間違いないと思います。
 でも、交通事故が減ったのは、法律が厳しくなって、経済的な観点からも車で移動する距離が減ったのにも起因してるのではないでしょうか。あと、オートマティック車の普及も大きいでしょう。だから、深刻な志望者数の例としてそういう問題と自殺問題を比べるのはどうかと思うんですよね。


 *このやりとり中、私(渋井)が取材していた、自殺志願の男性が亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年5月10日 (水)

5月病

ロブ(以下、R):G.Wも明けて、新入社員、新入生には「5月病」と自己診断しちゃう人が増えて きますよね。この名称は、4月の環境の変化に伴って、5月頃から鬱的症状になる人が多いことから名前がついた一種の鬱状態のこと。もともと五月病は学生に多くみられるもの。厳しい受験勉強を勝ち抜いて、学校に入学。その緊張が連休などで解けてしまい、急激に気力を失ってしまうところから起こることが多い。
 しかし、最近では学生だけでなく、社会人でも多くの人が五月病に悩まされているようです。その原因は、転職する人が増えたことや、不景気で仕事が大変な人などいろいろ。
 とにかく、五月病は学生だけがかかるものではないということは確か。就職したての新社会人はもちろん、何年も勤めている人でも五月病にかかる可能性は否定できないみたいです。
 僕は、5月病には縁遠い人間なんですが、渋井さんはいかがですか?

渋井(以下、S):私も、フリーランスなので、現在は「5月病」とは関係ないですね。ただ、わからなくもないです。大学に入学当初、私は電話魔になりました。サークルの先輩とけっこう長電話ばかりしていました。まだ入会したばかりだというのに。イエデンだというのに、4月と5月は電話代が3万を超えました。
 そのため、電話代を安くするほうほうはなにかと考え、普通なら、通話時間を短くしようと考えますよね?私はそうしなかったんです。当時は東武東上線の若葉駅から徒歩10分ほどのワンルームマンションに住んでいました。電話の相手は都内が多かったので、「そうだ、都内に引っ越そう!そうれば通話時間が同じでも電話代は安くなる」と思って、上板橋駅から徒歩8分くらいのアパートに引っ越します。それだけ、当時の私には電話が大切でした。
 大学卒業後、私は長野県に住みました。新聞社に就職したのですが、当初は知り合いがほとんどいない土地でした。当時の彼女も長野県だったので、会うことはできましたけど、休みが会うことが少なく、コミュニケーションが仕事以外に少なかったので、ちょっと凹んでいました。
 ちょうど5月くらいかな、いまから考えれば、鬱傾向はあったと思います。その時点で精神科に通えば、抑うつと診断されたかもしれません。知り合いほとんどいない土地で、しかも仕事も慣れない。そして、生活も不規則。かといって、その頃は今みたいに飲み歩きという遊びもそれほどしていない。家の中で鬱屈していたのを覚えています。そのとき、その鬱屈のはけ口はまたもや、電話でした。ツーショットダイヤルにはまったわけです。

R:この時期ってのは、雅子様も罹患していると言われる「適応障害」に悩む人が多いんじゃないでしょうか。渋井さんも、大学も就職先もやはり、適応しようという力が必要以上に入っていたんじゃないかな。
 そうじゃなきゃ、鬱屈した気分にはならないでしょう。僕の場合、どこに行ってもそつなく入り込めてしまう器用貧乏なので(笑)、あんまり対人関係、環境で悩むことはないんですよね。
 どちらかというと、「自分の存在の不思議」という実存的問題が絡まってるら、5月病っぽくなっても、学生時代もあんまりこの時期に鬱っぽくならなかった。でも、相談メールは年末、3月、そしてこの時期には多いですね。あとは9月かな。でも、渋井さんは、ツーショットダイヤルで回復したってわけですか?

S:器用なんですか。それは外見的には、うまくやってるように見えるから、周囲には心配されないよね。私も普段はそうです。ツーショットダイヤルなんかやっているようには見えなかったと思いますよ。当たり前ですが、当時の彼女にも隠していたしね。
 電話やツーショットダイヤルだけでは回復しませんよ。さきほどの例で言えば、大学入学のことは、読書をすることで電話魔を抜け出した。当時は社会科学や哲学書(たとえば、『唯物論哲学入門』とか、『賃労働と資本』とかだったかな)を中心に、たまに、『子供たちの復讐』とか『開け!心が窓ならば』等のルポも読みました。法学部生だというのに、法律学はほとんど読んでないんですね。私の場合、そうすることがサークルの先輩とのコミュニケーションを促進したんです。
 就職した時にツーショットにはまったときには、塩尻市に住んでいた当時は、相手に会いました。ときどき、ゲイの人とも会うことになりますが。でも、それまでに電話代がものすごくかかる。だから、プリペイドカードを買ったりしましたが、それも飽きて、niftyのチャットに移行します。午後11時以降の、いわゆるテレホーダイの時間につなぎっぱなしでしたね。ネットを初めて、ホームページを作ったのもこのころです。とにかく、誰かとつながっていたかったんですよね。
 いずれの場合もコミュニケーションを促進することで、誰かとつながっていたいという欲求を満たしていたように思います。
 でも、いま、Yahoo!Japan!で新着特集があって、そこに「5月病を撃退! 心の健康特集」ってありますよね。抑うつ状態になったときに、人はこれまで、自分なりの抜け出し方を探したと思うんです。私の場合は、電話コミュニケーションやネットコミュニケーションですね。いまだとしたら、飲み歩きでしょうか。でも、最近はすべて、「心の病」とかに還元される傾向があると思うのです。斎藤環さんの本のタイトルにあるような「心理学化する社会」だと思うんです。ロブさんはどう思いますか?

R:「心理学化社会」は止まりませんね。臨床心理士も国家資格になるようですし。ただ、マスメディアが「病気の原因にはストレスが…」って言い過ぎなんですよね。そもそも、医学的にストレスのエビデンスってのはあんまりないし、どちらかというと俗語の部類です。うつ状態、不安も、肝臓の悪い人はかなり激しく出る。
 そういう臓器異常からの信号を精神状態がキャッチすることが多いのに、そういう観点から精神科医はあまり見ない。だから、神経症圏の病気が慢性化して心療内科・精神科クリニック乱立のサイコバブルになってしまった。
 実際に、この時期から精神科に受診する人は多いみたいです。自分で解決しようという内発性が子どもの頃からない人が増えてるんじゃないでしょうか。塾講師を始めて、小学生と接する機会が増えてからそう思うようになりました。これは、教育の問題ってより、親のしつけの問題ですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月 3日 (水)

ネット恋愛

渋井(以下、S):最近、ネット恋愛を取材、執筆しています。ネット恋愛は、ネットがきっかけになる恋愛であって、会った後に好きになる、会う前に好きになる、会わないのに好きでい続ける、というパターンがあります。私も何度かネット恋愛を経験しました。付き合った場合も、付き合わない場合もあります。私自身は、いずれも会った後に、恋愛感情が芽生えました。そうえいば、ロブさんも、ネット恋愛の結果の結婚ですよね?

ロブ(以下、R):ネット恋愛の結果って…(笑)。まあ、そうですけどね。まだ、僕と妻が知り合った頃は出会い系サイトもネット恋愛もそういう言葉がなかったんですよね。メグライアン主演の「You've got  m@il」が上演されてから、ネット恋愛がロマンティック・ラブみたいに少しは語られました。
 ただ、渋井さんが言う定義では、僕たちは前者ですね。ネットはきっかけに過ぎない。そもそも、ネット環境もISDNも夢の時代で、メールのやり取りより電話の方が早いし、安いって時代でしたから。携帯で写真を送ることもできない時代でしたから、過剰な期待は否が応でも膨らむわけです。
 でも、二人とも会うまでは押さえてた。それが、結果的に洪水のように感情があふれ出て好きだってことを確信して、付き合うようになったんです。まあ、結婚まで至るとは思いませんでしたけどね。遠距離恋愛も相互作用して、お互いの恋愛観を変えるまでになりました。だから、実際に会わなくても付き合ってるって言う人の相談は、感覚的に、正直わかりづらい。
 もちろん、会わないから思いは募るわけですけど、募りすぎて、実際に会った場合に肩透かし食らったり、盲目的に好きになったせいで、他にも相手に好きな人がいてもそれに気付かなかったりするでしょ?そういうのは、匿名性メディア恋愛の特徴かもしれませんけど、ネットからケイタイまでどこでも入り口があるネット恋愛って傷つくことも込みでしてる人は少ないですよね。だから、僕は否定はしないけど、会わないで付き合ってるというのはおかしいなぁって感じです。

S: 私のネット恋愛も、実際に会う前に好きになったケースはないんですよね。ネットは出会いのきっかけにすぎませんでした。たしかに、会う前に「いいな」って思ったり、気になったりしたことはあります。それに、その相手からメールが来ないと、どうしているかな?と心配したり、寂しかったりすることもありました。でも、好きにはならなかったですね。理想化してしまう心理はわかりますよ。それって、ネット恋愛じゃなくても、リアル恋愛でもある程度はそうですからね。
 ただ、ロブさんの場合もそのようですが、ネット恋愛と遠距離恋愛が重なると、なかなか大変だな、って思うんです。一般的に、遠距離恋愛の場合、最初は近距離恋愛で、どちからがなんからの理由で引っ越しします。あるいは最初から遠距離恋愛でも、恋愛するなんらかの理由が必要になる。いずれの場合も、リアルなコミュニケーションの中で、相当な理由がある。そうしたベースの上に、電話だったり、手紙だったり、今であれば、ネットがあったりする。ネット恋愛&遠距離恋愛の場合は、リアルな場面で恋愛する相当のコミュニケーションがないこともある。
 でも、彼ら彼女らは「ネットや電話で毎日会話しているので、会っている気がする」と話しています。たしかに、私もそうした思いはありますが、リアルで会える近距離のネット恋愛だったから、そう思いました。
 会わないで恋愛する人もいますよね。まったく会わないで、ネトカレ=ネット上の彼氏やネトカノ=ネット上の彼女がいたりする人もいます。たしかに、そういう人たちは毎日のようにネットで会話しています。メールやメッセンジャー、IP電話、ケータイ電話などのチャンネルが増えていて、しかも、メールエッチやチャエッチ、テレホンセックスをしているので、ある程度は性欲も満たしているんです。会わない相手とそこまで継続的に心理的にもつながるのはすごいな、って思います。脳内恋愛=二次元恋愛に近いのかもしれませんが。。。。
 私もメールエッチやチャエッチはしたことありますが、ロブさんはありますか?笑

R:メールエッチやチャエッチはないですね(笑)テレホンセックスは何回もしましたけど。 想像の中でのセックスってのは官能的ですよね。ただ、テレホンセックスと違って、微妙なニュアンスが相手にも届かないし、こっちにも届かないんじゃないですか?メールやチャットでは?
  なんか、即物的な感覚が拭いきれないんですよね。メールセックスやチャエッチってのは…。


S:テレホンセックスとの違いかぁ。経験で考えると、微妙なニュアンスが届かないことが違いではないと思うんですよ。そうした微妙なニュアンスが届かないのは、リアルなセックスでもあるときはありますからね。むしろ、テレホンセックスの場合には、常時相手の声は聴こえ、相手を感じることができます。しかし、メールエッチやチェエッチの場合は、文字がやりとりされるときだけがつながっている感覚です。しかも、文字を打たなければならず、手をあける必要がありますよね(笑)。だから、文字を打つ時は、ちょっと理性的になってしまいます。
 こうしたエッチに代表されるように、相手をどのように感じることができるのかが、ネット恋愛のポイントであるとは思います。これは、ネットをきっかけにした恋愛や、ネットの中だけの恋愛のみならず、リアルから始まった遠距離恋愛でネットを利用して継続する場合、すべてにあてはまることだと思います。
 私の最初のネット恋愛のときには、遠距離恋愛ではなく、結局付き合うことはしませんでしたが、Webでの交換日記を書いていたことと、ICQでの会話、ケータイ・メールが相手を感じさせる道具でした。でも、リアルに会ったことが多かったので、相乗効果のようなものだったかな。昔で言えば、デートし終わって家に帰っても、長電話しているような。
 二回目のネット恋愛のときは、これも遠距離恋愛ではなかったですが、朝起きて、外出するときまで、また帰宅から夜寝るまでは、Yahooのメッセンジャーをオンラインにしていて、テレビを見ながら、あるいは他のチャットルームに入りながら、会話していました。執筆しながら、会話していたこともあります。
 会っていないときに、相手をどのように感じることができるのか。私自身の体験を考えても、そうしたパーソナル・メディアがない時代には、手紙がありましたし、毎日電話するわけでもなかった。会っていない間、相手のことは気になり、不安感や孤独感を抱きましたが、それは恋愛にとっては必要不可欠なものでした。しかし、パーソナル・メディアがある現在では、不安や孤独を感じたら、メールをすることもあるし、電話をすることもある。相手の声やメールの文字を見ないと、相手を感じられなくなっているのでしょうか?

R:やっぱり、男性側は想像力の欠如は顕著だと思いますよ。だから、デート中のコミュニケーションで女性に愛してるってオーラを伝えられてない。女性が、そういうオーラを感じる感受性が鈍くなっているのもあります。要するに、すぐに相手とケータイなんかでは連絡が取れてしまう。
 昔だって、本当に好きな二人は、それぞれの家に帰っても、不安だったでしょう。でも、即時に直通連絡手段がなかった。だから、自分の気持ちをコントロール、もしくは押し殺したりした。
 でも、今は、そういう不安に耐えられなくて、会った数分後に電話して長電話とかしてしまう。メールの顔文字一つで相手の気分を害したと落ち込んだりしてしまう。便利になった分、そういう感受性は鈍くなってる男女が多くなってる気がします。
 

S:不安に耐えられないというのはあるでしょうね。それは、恋愛だけでなく、コミュニケーションの全般の問題として言えますよね。ただ、そうした人たちが多いことを前提に、恋愛や友人、家族関係を考えなければいけなくなった時代ではあります。その中で、自分のスタンスを、コミュニケーションの相手に伝えておくことが必要になってきているんだな、って思います。
 ちなみに、私の場合には、仕事の場合や、友人関係、家族関係の場合は別ですが、好きになった人とは、一日に何度もメールを送っても苦痛ではないですけどね。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年4月19日 (水)

出会いの季節

渋井(以下、S):4月になりましたね。この時期は、新しい出会いがあると思いますが、ロブさん、なにか、新しい出会いはありましたか?私はほとんどありません。飲み屋ではいつも新しい出会いはあって、4月ならでは、って感じではないですし。あとは、仕事関係くらいでしょうか。この前、仕事をしている雑誌に新人が入ったことで紹介されたくらいですね。

ロブ(以下、R):新しい出会いはないですね。やっぱり編集者くらいしか…、否、ありました。今月から塾講師を始めて小学生や中学生との出会いはありましたね。昨日は、初めてレギュラーで毎週小学校2年生を教えることになったのですが、会う前に聞くと超問題児。何が問題かというとインセンティブ(やる気)の問題で、今まで担当してきた先生がさじを投げて、僕が担当になったんです。
 面接の時に、「勉強が苦手な子どもを教えるのが得意」なんかて言ってしまったからでしょうか(笑)でも、僕の場合、雑談が多いので、どうにか心を一回目から開いてくれたようです。でも、男の子ですよ(微笑)

S:出会いといえば、インターネットの世界でも、新規ユーザが出てきたり、あるいはひとり暮らしを始めた人たちが孤独感や寂しさ、暇つぶし等のために、新しいサイトを探したり、出会い系に登録する、といった新しい出会い探しをするような時期です。それを見越してか、出会い系のSPAMも多いですが。

R:スパムは多いですね。僕は、毎日150通は来ます。有料エロサイトに登録してたから、アドレスが流出してしまってるんですね(笑)。でも、出会い系サイトへの誘導メールも巧みになってきましたよね。普通のメールで、「助けて」なんて書かれてると、危うく返信してしまいそうになってしまいます。
 相談メールは、この時期は数が少ないものの、大学に入って、急に調子が悪くなって困ってる人は多いみたいです。季節の変わり目と環境の変化が影響してるんでしょうけど。

S:スパムは、スパムとして扱うと頭にきますが、暇つぶしとして、いろいろ読んでみると、おもしろいものも増えてきましたよね。「助けて!」ってのも確かにありましたし、タイトルが「re:re:re・・・」みたいになっていて、いかにもメール交換していたかのうようなものもあったり、友だちを装うみたいなものもありますよね。あとは、エッチな女性になりきっているのは当たり前ですが、出張ホスト募集のようなものがありますよね。ちなみに、ホスト募集は、登録詐欺も多いですが、たまに本物があるようですね。
 この時期、相談メールはロブさんも減りますか。私も毎年、この時期は少ないですね。やはり、新しい学年、学期、あるいは新しい学校や就職先への期待感もあるだろうし、必死に適応しようとする時期ですからね。不安を感じながらも、適応しようと一生懸命なんでしょうね。そもそもこの社会に適応すべき価値があるのかといった発想になれば別ですが、それで適応できれば、とりあえず不安はなくなるわけですし。

R:中学から高校、高校から大学生、専門学校生など、一般的に普通に決まったコースに 進む人は、生きづらさから解放されるチャンスだと思って、頑張っている時期でしょうからね。まあ、生きづらさから解放されるなんて思ってはいないでしょうけど(笑)
 でも、フリーターとかに何となくなる人は、5月のG.W以降にドーンと落ち込むことが、多いように思います。今でも、「希望」、「出会い」、「旅立ち」なんてキーワードで追い詰められてるという感じもします。
 ただ、日本は四季折々の変化がはっきりある珍しい国ですからね。日照時間の長くなるこの時期は、積極的に外に出て新たな出会いを求めることで、世界観が変わると思うんですが。


S:私の経験でいえば、大学一年のとき、4月は希望と同時に幻滅を覚えました。マスコミでよく「大学はレジャーランドだ」とか「大学生は遊んでいる」とか言っていた時期だったでしょ。うちは、そんな経済的余裕があるわけではないし、仕送りなしの条件で大学進学を許された「下流」だったせいもあって、遊びながらも、勉強をするときはするのが大学生と思っていたのが、裏切られました。まあ、入学した大学のせいかと最初は思っていましたが、違うこともわかった。仮に勉強するにしても、いかにテストでよい点をとるか、よい就職をするための勉強をするか。
 私が理想として描いていた、真理の追究、なんて学生はほとんどいない。当時の私には納得がいかなかった。でもやっぱり遊ぶ方がいいのか、と思って、オールラウンド系のサークルに入ろうとしたんですが、活動費が高くて、会費を払わなかった。すると、先輩の女性がなぜか説得しに来ていましたが。そうした大学生に適応しようと最初はしましたが、そうした雰囲気に適応するのを辞めたのはGWですね。
 ある女性が言っていたんですが、「そんなの二日でわかったわ。だから、私は大学に行くのを辞めた。渋井さんはよく言ったね」と。おそらく、私が行ったのは多少の期待がまだあったから。サークルで、授業とは違った面から勉強できるところでしたし。それに、せっかく大学に入ったのだからそれまでの時間とお金をむだにしたくないと思った。あとは、辞めて何をするかはわからなかった。
 そんなとき、古本屋で見つけた本が、ロシアの哲学者・プレハーノフの『歴史における個人の役割』(岩波文庫)。大学を卒業するまで何度も読み続けた、私にとっての、バイブルでしたね。あのころは、迷うたびに古本屋で本を探しましたね。20歳の誕生日には、高野悦子の『二十歳の原点』(新潮社)を見つけたりしてました。

R:僕が入学した、98年前後からレジャーランド化はストップし、ダブルスクールで、大学と専門学校に通う人が増え出しました。だから、僕が大学生の頃は、いわゆるオールラウンドサークルも少なくなってきて、一人暮らしが減り始めていました。だから、大学で新しい出会いを求める人は減っている感覚がありました。
 今も、ナンパする人は減って、SNSのオフなんかで知り合ったり、出会い系でセフレを簡単に探して、セックスまでの道をショートカットする。もちろん、匿名メディアという観点からは、伝言ダイヤル、テレクラもありましたが、もっとコミュニケーションが出会いにはあった気がするんです。でも、最近は「割り切る」という言葉で、友情を深める、愛情を深めるという過程をすっ飛ばしたがる人が多いような…。
 でも、逆にそういうコミュ二ヶケーション過程を欲してる人が、生きづらいと感じてる気がします。
 まあ、出会いの多様性と言ってしまえばそれまでですが、「出会い」という響きの新鮮みがどんどん失われているとロマンチスト(笑)の僕は思ってしまうんです。

S:ダブルスクールは私の頃にもありましたよ。特に私は法学部ですから、法律専門学校に通っている人もいました。それに、サークルの先輩にも専門学校に通っている人はいましたね。私のイメージでは、レジャーランドだから、ダブルスクールがあったんじゃないか、と思っていたのですが。
 オールラウンドサークルはたしかに、テニスサークルとともに衰退したいったように思います。でも、イベントサークルはなかったですか?集団強姦で名前が知れわたった早稲田を中心としたインカレのイベントサークル・スパーフリーも、私の時代からあったように思うんですよね。
 ロブさんがそう思っていたということは、時代の問題なのか、それとも所属していた大学の問題なのか。どっちなのでしょう?
 恋愛やセックスまでのコミュニケーションをショートカットするのは、私としても、ポパイやホットドックプレスなどの恋愛マニュアル世代としては寂しいです。90年代の恋愛マニュアルでは、会話や雰囲気作りは重視していましたからね(笑)。でも、逆に言えば、恋愛やセックスにそれほど時間をかけるほどの価値がなくなってきた、とも言えます。付き合っている人がいることに価値があるんであって、好きな人がいること自体はどうでもいいんじゃないかな。

R:ダブルスクールでも、大学は学歴(学校歴)用で、資格を取るために専門学校に行き、専門学校も大学生用のコースを用意し始めたのは、98年前後だと思います。この頃に、分数計算のできない大学生がマスコミで問題視され始めましたから。イベントサークルは数がかなり少なくなっていましたね。サークルの数が少なくなって、インカレが増えていました。早稲田なんかとも提携してたサークルは多かったかな。
 ただ、就職氷河期でしたから、ダブルスクールでも大学も真面目に通って、専門学校にも通うからサークルには入らないって人が多くなった時期かもしれません。だから、大学内での恋愛ってのは少なかった。むしろ、バイト先でカレシ・カノジョと出会うというのが僕の周りには多かったような気がします。
 ただ、最近は、付き合うってのがどの辺からってのが曖昧になってきたでしょう。セックスがないことで必要以上に悩んで、夫婦、カップルカウンセリングに行く。そういう人がいる一方で、セックスと、付き合うのを機能分化してる人もいますし、その辺は出会いの多様性と符合してるのかなと思いますね。

| | コメント (0)

2006年3月29日 (水)

渋井(以下、S):さて、今回は旅の途中からメールをいたします。「青春18切符」や「北海道・東日本パス」を組み合わせての一人旅です。そのため、これまでずっと各駅停車の旅なのです。いま(3月26日)は、岩手の遠野に来ています。柳田国男の「遠野物語」の舞台であり、日本でも民俗学発祥の地でもあります。私は、こうしたほとんど取材に関係なく、長期の一人旅はほぼ10年ぶりなんです。10年前は仙台市内まで北上し、仙山線で作並温泉に行き、山形を通って、当時住んでいた長野県塩尻市に戻る旅でした。今回の予定は、仙台→遠野→八戸(キリストの墓)→旭川→札幌→秋田→山形→仙台→東京、といったルートを予定しています。ロブさんは、18切符を使った長期の一人旅の経験はありますか?

ロブ(以下、R):僕ね、18切符って憧れなんですよ。高校の時に、定偏差値校だったから、渋井さんみたいに北海道まで大学見学に18切符使って行けって言われて、行こうと思ったけどなんか行く気のない学校に長時間の旅はって感じでした。一人旅はないですけど、予備校のときかな。武蔵野線に乗って知らない街に行ったり、京浜東北線で大宮から大船まで意味なく何回も行っていました。あと、湘南の海とかも大学に意味なく一人で冬なのに、ぶらぶらいきました。渋井さんの今回の旅は、慰安旅行みたいなモノなんですか?

S:慰安旅行などの明確な目的はないんです。大学生の時から、18きっぷを使ったり、フリー切符を使ったりして、その期間中の旅はよくしていましたので。今回は、なんとなくです。たまにやりたくなるんです。でも、今回のように長期の一人旅は10年ぶりでした。
 大学生のとき、18きっぷを使って、夏休み中に、広島・長崎を訪問したことがあります。卒業旅行も18きっぷを使いました。そのときは九州に行きました。熊本までですが。また、フリーきっぷを使って、天の橋立てに行ったり、紀伊半島に行ったりしました。仙台の作並温泉に行ったときもフリーきっぷを使っていたと思います。
 ただ、今回の旅で気がついたことがふたつあります。一つは、あらためて思ったのですが、新幹線の影響です。特に仙台は東京から1時間ほどで着いてしまうので、東京の郊外と同じ感覚になってきている。仙台に来たのは10年ぶりだったのですが、まるで、町田を見るようでした。銀行に行く途中に消費者金融のATMがあるんです。潜在的に消費意欲を駆り立てているような気がしました。
 また、新幹線の影響で、JRの赤字路線が廃止になっていますよね。岩手(いわて銀河鉄道)や青森(青い森鉄道)の一部は第三セクターになっています。新幹線ができると主要都市の駅以外は採算が取れないのでしょう。これは長野新幹線が出来たときと同じです。長野新幹線の場合も、在来線が第三セクターになりました。ただ、群馬県の横川と軽井沢の間は第三セクターもありませんよね。
 こうした採算が取れない路線の第三セクター化によって、18きっぷではこの区間が利用できないのです。旅の途中、これに疑問を持っている旅行者もいました。これは18きっぷの旅に影響が出るでしょうね。
 そのため、JR等でも、一部はその対策をしています。それが今回、私も使用した「北海道・東日本パス」です。青森や岩手の第三セクターでも、この切符では利用できるのです。東北地方を旅行するには18きっぷよりも便利です。
 ただし、18きっぷは、1日分が5枚一組で、日にちをずらしたり、二人で使うこともできますが、「北海道・東日本パス」は一人でしか使えなく、連続した5日間しか使えません。まあ、私は一人旅で、その日その日に泊まる都市を変えているので、ちょうどよいですが。

R:旅ではないですが、合宿免許で沖縄県の糸満市にノンフィクションライターの藤井誠二さんと滞在したのは良い経験でした。旅行では見られない、聞けないような地元住民の話が聞けました。
 そのとき驚いたのは、沖縄の若者は、地元に愛着のある人がどんどん少なくなっているということです。「だって、何もないこんなトコより、ナイチ(本州)の大きな街に住みたい」と言うのです。
 でも、大人も沖縄の財政状況の悪さは痛感してるようで、「仕方ないさあ。」とサバサバとした感じで答えました。沖縄に何か癒しを求めて行く人は後を絶ちませんが、旅として、観光として行っただけで「沖縄楽園幻想」を抱くのは危険だと思いましたし、なんか生きづらさの解消のために、沖縄に行く人は地元民を困らせてるだけだなと感じましたね。

S:生きづらさの解消のための旅でも私はいいとは思いますよ。それが観光という産業に組み込まれているものですし、それに、解消できたとしても、一時的であり、日常に帰ってしまえば、再び問題はふりかかってくる可能性は大きいですけどね。旅の目的はなんでもいいと思いますよ。
 「旅行では見られない」とロブさんは言いますが、それは「旅行」の方法にもよります。地元の人の話を聞けるという意味では、旅行でも十分聞けます。どこにいけば、その街の人の本音を聞けるのかを探せばいいわけです。本音を聞くことが何の意味があるのかはわかりませんがね。
 たしかに、観光だけで、「沖縄楽園幻想」を抱くのはいけないことだと思います。1970年に、国鉄(現在のJR)が「ディスカバージャパン」と銘打って、国内の電車旅行を宣伝していたことがあります。今回の旅でも、それ以前の旅行でも「こんなところが日本にあったのか」という発見、というか気づきはあります。
 特に、私のような東京を中心に見ているメディアの人間にはあらためて、「東京は日本のほんの一部」だということを再認識させられます。かつて、長野県の新聞社にいた時、木曽谷で取材をしていたのですが、まさに、そこは「ディスカバージャパン」と銘打った当時そのままの観光地があります。
 しかし、そこで住んでいる人たちの希望のなさ、一方でそれでもなにかできることを探すといった現実を目の当たりすると、旅行するときの目も変わってきますけどね。今回も日本海側の旅の途中、海沿いの小さな集落を目にしました。私の日常から考えれば、「ああ、これが日本海側の風景か。すごいな」だけで終わってしまいます。
 しかし同時に、「ここに住んでいる人たちはどんな生活をしているのだろう」と思ってしまうと、旅行気分ではなくなる。旅行の意味がない。旅行は、日常から切り離されるから成り立つと思います。
 それにしても、ロブさんはこれまでどうして一人旅をしなかったのですか?

R:結婚して、子どももいるとなかなか一人旅なんて出られませんよ(笑)それ以前は、大学生時代に日帰りでぶらっと日光辺りまで行ったことはありましたが、 今回の渋井さんのような長旅だけでなく、一泊二日の旅もないですね。
 なんでかっていうと、お金と時間がなかった。それと、その頃は旅行って女の子や(笑)、 友だちと行く感覚の方が強かったかもしれません。でも、大学に落ちて二浪目が確定したとき、日本海側に向かって、自分を見つめ直す一人旅、自殺予定の一人旅は計画したことがありました(苦笑)結局、予算がどうしてもなくて決行できませんでしたけど…。
 でも、時間と余裕さえあれば一人旅はしたいですね。今回の旅以外でも、何か印象的な一人旅って渋井さんにはありますか?

S:結婚と子どもは、たしかに、一人旅をしない、というか、できない理由になりますよね。まあ、一泊二日くらいなら、仕事だとごまかしていけなくもないけど、1週間くらいは無理ですね。海外取材でもしない限り。
 ただ、予算がなくても、昔はみんな一人旅をしていたんじゃないの?ユースホステルに泊まるとそんな話ばかりだったし。私だって、大学時代は18きっぷと安宿を探して、そしてたまには駅で泊まりましたしね。
 当時は18きっぷは1万円で、旅のトータルも3万以内ですませていたような気がします。「さーくる旅」という大学のサークルに入っていた先輩は、安い旅行の仕方を知っていました。国内でバックパッカーという発想が徐々になくなっているんでしょうね。
 私は印象的な旅はいろいろありますよ。たとえば、三重県の関町を訪れたときですね。鈴鹿の、東京から見れば手前の関所町ですが、ここは、伝統的建造物群保存地区なんです。ここに、記者時代に休みをとって行きました。同地区に興味があったのと、その地区に、木曽谷の同地区の保存担当者が移り住んだことがきっかけでしたね。
 それと、天の橋立てに行ったときも、京都の京都市近辺以外のイメージを持つことができました。京都って海あるんだな、って実感しましたよ(笑)。山城温泉に行ったときも、そこに行くことを決めていなくて、偶然立ち寄りました。
 それと、結婚前に行った仙台の作並温泉も覚えています。仙台と山形を結ぶ仙山線に乗ってみたかったんです。このときは、正月にパートナーに黙って行きました。当時はケータイは持っていたのですが、作並温泉は圏外でした。連絡が取れなかったので、怒られましたよ。でも、怒られる理由がよくわかりませんでしたけどね。
 こうやって、たまーに、ぶらっと一人旅をしていますよ。予定があいまいな。今回も予定は一応立てますが、ほとんどが行き当たりばったりです。泊まる場所も、前日くらいに決めています。
 ただ、いつも思うのですが、観光ガイドって一人旅には役に立たない。最初から「ここに行く」と決めていれば、予定が成り立つのですが、そうではないし。それに、駅前の観光案内所のほうが詳しい。一人旅なら、インターネットもあるし、それで十分です(でも、いつもながら、今回も買ってしまいましたが・・・・)

R:僕が大学生に入学した1996年くらいから、サークルに入る人間も少なくなっていました。大学に何となく入学したって感じの人が多かったし、僕は文学部英米文学科なので、地味な人間が多かった。
 換言すれば、受け身な人間。でもそれは、男連中が多かった。女の子は、一人旅行というより、留学しちゃうんですよ。そもそも、英米文学科なんていたって、英語がしゃべれるようにはならない。
 もちろん、僕の大学の師匠的存在の先生は、音声学の権威でバリバリ通訳講座をやっていましたが、いかんせんキツイ授業。だから、自然に英語をマスターするために、女の子は一年留学したり、夏休みに短期留学してました。でも、そういうのは少数派で、僕のまわりには一人旅行するヤツっていなかったですね。
 最近では、自分探し目的にアジアとか行く人多いですよね。ただ、海外の一人旅で、インドは沖縄みたいに「何か自分が変わる」って思い込んで行くと、失望してしまう人が多いみたいですね。
 そもそも、旅って思わぬアクシデントが後に、良い思い出話になると思うんですよ。僕は、小学校のときの家族旅行でいつも父親の車が故障して、地元の修理工を探すのに苦労するのが通例で、当時は携帯電話なんかなかったから、山奥の家で電話を借りて、自動車修理工を呼んだりしていました。
 あと、渋井さんの出身の栃木は家族旅行でよく行きました。那須塩原温泉が多かったけど、初めての温泉は鬼怒川温泉でした。那須サファリパークも行きましたね。でも、あそこでミッション車だったから、ブレーキのかけ過ぎでクラッチの調子が悪くなって、危うくライオンのゾーンで立ち往生しかかってヒヤヒヤしてました。僕の中では、旅=家族旅行って原体験が強いですね。

S:私の大学生のころも、徐々にサークル離れは起きていて、希望の学部でない不本意入学も相当いました。だから、サークルに入るか入らないかで、大学内の人間関係はむしろ、以前よりも「島宇宙」的でした。私なんか、社会福祉のサークルだったので、他の関連サークルの人からは、社会学部の人と思われていましたからね。
 話をもどせば、旅をするかどうかは趣味の部分も大きいですね。私は今回、遠野物語の舞台になり、日本の民俗学の誕生の地・岩手県遠野市に行きましたが、これは旅をしたいと思ったときに、思いついたのです。また、青森県新郷村のキリストの墓は、ずっと前から一度は行きたかったんです。で、北に行こうと思ったわけです。
 各駅停車の旅はやっぱり疲れます。でも、方言が変わって行く様子を感じることができますし、面白いですよ。それに、旅をしながら、次回の旅は「こうしよう」「ここに行こう」とか思うわけです。きょう(4月1日)も、秋田から山形に南下中に、「奥の細道」を観光資源にしているところがあり、これもいいな、と思いました。文学や歴史に関連づける旅も好きなんですよね。
 なにはともあえ、旅をしていると、日常に戻りたくなくなる。ずっとそれで生きて行ければいいな、って思うんですが、そんなことはできませんよねえ。

(旅をしながらのメール交換)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月22日 (水)

ネット心中

ロブ(以下、R):今回は、ネット心中について話しましょうか。最新のデータとしては下記のようなものがありました。

 昨年1年間に、インターネットのサイトで知り合い一緒に自殺する「ネット自殺」は全国で34件(前年比15件増)発生し、91人(同36人増)が死亡したことが9日、警察庁のまとめで分かった。
 同庁が統計を取り始めた2003年(12件で34人が死亡)と比べ件数、死者数ともに約3倍に急増している。
 まとめによると、死者は男性54人、女性37人。年齢別では20代が38人で最も多く、30代が33人、40代が9人、10代が8人などの順。
 昨年2月には神奈川県三浦市の農道に駐車したワゴン車の中で男性3人、女性3人が練炭で集団自殺するなど、同年1−3月に20件(死者54人)が集中した。
(共同通信) - 2月9日

 この記事は数字だけ見ると、どんどんネット心中が増えている印象を与えますが、ネット集団自殺が初めて発生したとされるのが、2003年の埼玉県の入間市で起きた男性1人、女性2人のネットを介した集団自殺です。
 こういう記事を見ると、いかにも若者の自殺が増えているように思えるんですが、2005年の6月警察庁発表データでは、2004年の0歳から29歳までの自殺者数は、3836人、それに対して、40歳から59歳は12874人となっています。
 総数は32325人。自殺者数は、厚生労働省の発表と警察庁の発表者数が異なることが多い。でも、若者の自殺が増えているという事実はない。けれど、ネット集団自殺という言葉のイメージが若者の自殺者数増加という印象を強く与えているような気がするんです。

S:まず、厚生労働省と警視庁の自殺者数が違うのは、「自殺」の処理が違うからです。
 http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/2740-2.html
 にもありますが、死体発見時に遺書がなく、死因が不明の場合、警察庁は、その後の調査で自殺とわかったらその時点で、統計上の数字になります。厚生労働省の場合は、「自殺以外」で処理。死亡診断書等について作成者からの訂正報告がないと統計に現れない。つまり、警察の調査によるか、医師の死亡診断書によるものかで、違いますね。
 さて、「ネット心中」という言葉はもともと2000年の、歯科医師とOLが自殺系サイトで知り合って、睡眠薬自殺をしたときに、読売新聞の見出しで使われました。いまの「ネット心中」は、ロブさんの言うように、2003年の入間市で起きたケース以降、模倣され、連鎖されたものを指します。
 「ネット心中」は、ほかにも「ネット自殺」と言われたりしますが、ネットを介した自殺という意味では、ドクターキリコ事件等のように、ネットで入手した薬物等によって死亡するケースと区別するために、私は使いません。芹沢俊介さんは「集合自殺」と言っていました。
 若者の自殺は急増はしていませんね。ある一定の自殺率を維持しています。たしかに女性に限ってみれば、03年の統計から、死因の一位が自殺というのは、「15〜34歳」までと、それまでの「20〜24歳」「25〜29歳」だけだった枠から広がっていますが。ただし、全体の数値としては「急増」というほどではないですね。手段の一位は相変わらず、「縊首」。首つりですね。ついで「ガス」になっています。
 それに、ネット心中は、若者だけではないですよね。昨年のデータでも、12人が40代以上です。

R:埼玉県熊谷市では、子どもと車の中で練炭を炊いて心中した事件もありましたよね。 「ネット心中」という言葉を産み出したのは、渋井さんの『ネット心中』だと思うんですが、元来、情死という意味合いの心中という言葉を、ネットを介した自殺に使った理由はなぜなんですか?


S:「ネット心中」は、昨年の新語・流行語大賞の候補作となりましたね。説明でも、「渋井哲也の著書」となっていました。でも、もともと「ネット心中」という言葉を産み出したのはマスコミですよ。「ネット心中」とか「ネット自殺」だとかを無自覚に、自然発生的に使っていました。
 私の場合も当初、最初は、「『心中相手募集』自殺事件」としていました(『創』 創出版 03年4月号)。しかし、その後、2人以上の人が同時に自殺するという辞書的には2番目の意味で使い続け、拙著「ネット心中」(NHK生活人新書)を出したことで、定着したんじゃないでしょうか。
 現在でもマスコミで使われることがある「ネット自殺」では、複数自殺の意味がない。また、集団自殺というほどの集団的意味付けもない。
英語圏のマスメディアにも、英語ではなんと呼べばよいか?と聞かれ、「double suicide」がよいのかと思ったんです。情死の意味が薄いですから。情死だと「lovers' suicide」ですからね。だから、「net - double suicide」としたいところですが、2人以上の場合もあるので、「net - group suicide」とせざるを得ませんでした。

R:英語圏では、情死という概念が理解しがたいものらしいですから。フランスなんかでも見ず知らずの人間が会って、自殺することなんかないし、出会い系サイトも、大勢で美術館に行くみたいな感じらしいです。日本で言えば、オフ会ですね。
 以前、渋井さんとお話ししたときに、僕が「感情の介在しない情報伝達のみのコミュニケーションがネット心中につながるのではないか」と言ったときに感情が介在しても、ネット心中は起きると言っていましたよね。
 その辺を、もう一度説明してくれませんか?

S:統計的な取材はしていないので、経験論になります。ネット心中のプロセスを考えると、1)自殺未遂の繰り返し、または発作的にネット心中を考える → 2)自殺系サイトのネットサーフィン → 3)「心中相手」を募集する。または応募する → 4)メンバーは偶然の選択 → 5)役割分担を決める → 6)メンバーとの打ち合わせ → 7)下見をする → 8)実行する、といった流れになっています。
 それぞれのところで、脱落者がでてきます。脱落する理由は、1>メールをするほどのエネルギーがなくなるほど鬱になる、2>自身の自殺願望が頂点に達して、一人で自殺への行動を起こす、3>メンバー内の好き嫌いが発生する、4>恐怖を感じる、などでしょう。また6)と7)と8)は別々の日ということもあれば、一緒の日にやってしまうこともあります。
 基本的には、すべてのメンバーが相手を「人間」ではなく、「自らが自殺するための道具」としての人間とみたときに、成功率が高くなります。そのため、原則的には感情を介在させないほうがネット心中は起きるのです。
 ネット心中を決めた人たちが、ネットで相手を決めてから、無感情にネット心中に向かうといったイメージもあるかもしれませんが、そのプロセスでは、やはり最後まで迷っている人もいます。
 その中でも、もっとも感情の介在があったほうが、よりネット心中へ近づく段階があります。それは、3)から4)にかけてのところで、お互いの悩みを形式的に話し、お互いが絶望感を抱いた場合は、よりネガティヴな感情が介在します。
 そして、社会心理学でいう過剰な自己関連づけ効果が起きることがあります。つまり、相手の一部の話を聞いて、自分と同一視するのです。「自分と同じなんだな」と。その場合は、相手を救うことは自分と同じように死ぬことなのだ、といった考えに導かれます。これは、リストカッターの話を聞いていて、これまでしていなかった人がリスカをしてしまう場合に似ています。
 ただ、その後もそうした自己関連づけが継続して、心の交流ができた場合は、悩みを打ち明けられる相手として考えるようになり、お互いの自殺を止め合うといった場合もあります。この当たりの段階になると、常に「自分も死にたい」でも、「相手は助けたい」、しかし「一緒に死んだ方がいいのか」などの感情がめまぐるしく変化することがあるといった証言もあります。

R:この自己関連づけってのは重要かも知れませんね。批判を覚悟で言うと、ネット心中に至ってしまう時の心理状況は、鬱だとは思いますが、それ以前に個人の資質として、他人の心の動きが読めないアスペルガー症候群的なものがあると思うんです。あくまで、アスペルガー「的」です。
 僕は自殺志願者を取材してて思うんですが、自殺行為を行う前の行動履歴などを聞いていると、視野が狭くなってる、視野狭窄状態になる以前も、かなり視野が狭すぎる。自分の気持ちをわかってくれない周囲に落胆しているけど、その前の自分の行動が、自己本位過ぎるときが多すぎると思うんです。
 もちろん、それを周囲がくみ取ってやるべき何だけど、それには限界があるでしょう? 原因を生育歴に起因させるのは簡単ですが、自殺に至る前の個人の資質、気質の問題は、 脳還元主義以外に見られない。自己関連づけの原因を多角的に分析しないと、ネット心中を減らすのは難しいんじゃないかと、最近、考えるようになったんです。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月15日 (水)

アイドルを語る

渋井(以下、S):ロブさんの処女作「リストカットシンドローム」で、最も気に入っているのが第3章の、精神科医・名越康文さんとの対話なんです。その中で、「女性の身体的意味づけ」について話していますよね。
 リストカットに女性が目立つ大きな理由として、自己愛を表現する媒体としての<身体>という視点を提供しています。手首を切る等の行為によって、<見られる身体>を操作して、自己愛を表現するといった発想でしょうか。
 そう考えると、アイドルも似ているのかなあと。アイドルって、まさに、メディアを通じて、自己愛を表現しているように思えます。特に、ポスト・松田聖子と言われていた岡田有希子が自殺するまでは、自己愛の表現としての<アイドル>がそこにいた。
 しかし、その自己愛は、アイドル自身が持っているもの、というよりは、時代が要求したもの。アイドルはその<箱>だったと思うんです。だからこそ、「アイドルはトイレも入らないんじゃないか?」(笑)と思うほど、自我を殺していたように思えます。だから、アイドルの恋愛ネタはタブーだったし、破局なんてものは今よりも極端に隠されていたように思えます。
 だからこそ、ニュースが流れると、衝撃を与えましたよね。松田聖子と郷ひろみが別れたとき、松田聖子が「今度産まれてきたら、一緒になろうね、と言いました」と、涙を流しながら記者会見したのは今でも記憶として残っています。

ロブ(以下、R):タモリが吉永小百合はウンコをしないと信じていた(いる?)みたいなものですよね。 自己愛というと、アメリカの精神分析の泰斗であるコフートが有名ですよね。名越先生は、カウンセリングの師匠がアドラー派なんですが、アドラーも自己愛という概念を大事にしたそうです。
 まあ、見られる身体を意識するというのは、精神医学的に言えば、離人症的、解離的と言えるでしょう。僕の言葉で言うと、幽体離脱的(笑)。
 そういう文脈で考えると、女性の身体性を操作する究極系がアイドルとも言えなくはないでしょうね。癒し系アイドルというカテゴリーのアイドルほど、ストレス感じているどうですから(笑)

S:アイドルといえば、私が最初に<アイドル>として好きになったのは、河合奈保子なんです。私が自分のお小遣いで最初に買ったレコードは、「ラブレター」という曲なんです。ロブさんは、アイドルは好きになりましたか?

R:いやあ。アイドルネタは大好きです(笑)。最初は、おにゃんこクラブですね。工藤静香にメチャクチャハマってコンサートに何回も行きました(爆)それ以外でも、チェキッ娘っていうグループが数年前にあったのですが、おにゃんこ的でハマりましたね。
 「BLT」という女性タレント雑誌も大好きですし、「サブラ」も。とにかく、電車男のアキバ系的な、擦れてない部分が好きなんでしょうね。自分でも、その辺は自己分析中なんで、「なんでしょうねにしておきます。」(笑)

S:おにゃんこクラブですか。「夕やけにゃんにゃん」発のアイドルグループですよね。素人の参加を積極的にしたり、作詞家の秋元康さんが顔出しするようになったり、まだ無名だったとんねるずをメジャーにさせていく番組として、当時は私も毎日のようにチェックしました。
 工藤静香ですか。おばさんキャラ好きなんですか?(笑)。それとも、歌唱力がよかったからなのですか?

R:あのくしゃくしゃになる笑顔が良かったんですよ。唄ってるときとのギャップがね(笑) 今は、なんかただの元ヤンママですけど((笑))

S:私は、現在はライターをしている新田恵利が一番好きでしたが、「冬のオペラグラス」をソロで出したとき、歌が下手だったなと思って、ファンを辞めました(爆)。その次はグループ内のユニット「うしろゆびさされ組」のゆうゆ(岩井由紀子)が好きでした。もうひとりの高井麻巳子は秋元さんと結婚しちゃって、うらやましかった。
 おにゃんこクラブの登場は、おそらく、素人が、芸能事務所を経て、トレーニングをつまなくても、芸能界に入れる!というムードを高めましたよね。その分、演出をする秋元さんの腕が試されるわけですが。いまでいえば、モーニング娘。のつんく♂の役割です。
 ちなみに、私は、おにゃんこ以前は、河合奈保子から、松田聖子、中森明菜菊池桃子といったアイドルを好きでしたね。菊池桃子は、アイドル雑誌「MOMOKO」創刊のイメージガールでしたね。CDを買った最初も、菊池桃子のベスト盤で、ファンクラブにも入ってしまうほどでしたよ(笑)。
 みんなそれぞれの「虚像」を売りにしていて、いまほどバラエティーにアイドルがでない時代ですから、「素(もしくは、素らしきもの)」に接するのは、芸能マスコミくらいでした。でも、見ても、不思議なこととに、アイドル像は崩れることはなかったですね(爆)。

R:菊池桃子は簿妙な線でしたね。ラ・ムーとかいうバンドも組んでいましたよね?一応、当時からミュージシャン志望の僕としては、アイドルであっても歌唱力は重要でした。
 だから、工藤静香は、作詞に中島みゆきを起用したりして、脱アイドルを目指してたように思います。でも、当時、秋元康の力は凄かったですよね。彼に気に入られること=アイドルみたいな公約みたいだった。
 つんくも彼に憧れていたのは間違いないと思いますよ。僕も、秋元康になりたくて、高校時代に彼の通信作詞講座やってましたから(笑)

S:そんな講座があったんですか・・・。
 季節的に、「卒業」シーズンですけど、卒業ソングはなんですか?私は中学卒業のころ(1985年)は、菊池桃子の「卒業(歌詞はここ)」ですね。好きな人と下校した風景を思い出しながら、4月になると、「都会」に行ってしまう。失恋していない別れの曲です。相手の生き方への憧れを持ち続けるのですね。
 同じ頃、斉藤由貴の「卒業(歌詞はここ)」もあったのですが、そっちは失恋へとつながる。そして、もうあえない、ってことを強調していますよね。全体として、菊池桃子の「卒業」のほうが好きですね。
 菊池桃子の「卒業」の作詞は秋元さんなんですよね。やはり、80年代のアイドルを支えたってことでしょう。斎藤由貴の「卒業」のほうが、松本隆。松田聖子の「制服」や「赤いスイトピー」を手がけた人ですね。恋愛論として、二人は対立していますよ。別れ=失恋なのか、ってことですが。

R:僕の卒業のテーマソングは、尾崎豊の卒業なんですけどね(笑)僕にとっての卒業ソングはチェキッ娘の「抱きしめて」かな。元LUNA SEAの河村隆一が作詞したアイドルソング(笑)SPEEDの「my graduation」も好きかな。
 だけど、80年代は「卒業」というと「別れ」と直結していて「切なさ」がキーワードでしたよね。そういう意味では、松本隆の方が哀愁の入り方という意味で言葉の切なさを感じる曲が多いですよね。
 中森明菜の「二人静『天河伝説殺人事件』より」なんかは狂気的な切なさです。
まあ、アイドルにも歌唱力があれば、顔はイマイチでもっていうのと、歌はイマイチでも、顔が良ければてのがありますよね。個人的には嫌いですが、後者の代表格は、松浦亜弥かな。

S:尾崎豊の「卒業」は、たしか、菊池桃子と斉藤由貴の「卒業」とほぼ同じ時期にリリースしています。私は、尾崎の「卒業」はしっくりこなかったんですよね。ひとつは、男っぽすぎるし、「素(もしくは素らしきもの)」を出しすぎていること。当時、アイドル好きの私には合いませんでした。
 そして、「闘いからの卒業」とか「支配からの卒業」ってのがよく意味がわかりませんでした。今ではイメージとしては分かりますが、卒業しても「闘い」や「支配」はつきまといますからね。
 ただ、自己愛という意味では、尾崎は見事に表現していました。自身の自己愛がファンを引きつけたことはたしかです。彼が亡くなったときは、護国寺で行われた葬儀にも行ったんですが、焼香にファンが何度も並ぶので、終わらないと判断したスタッフたちが、一般の焼香を取りやめましたよね。私はそのために焼香できなかったのを覚えています。
 岡田有希子の死、そして尾崎豊の死。アイドルという象徴は当時、なにかしらの「生きづらさ」を代弁することもあり得るのだ、といったことなんでしょうね。この二人の死は、それを表していたんだじゃないかな。
 そうした時代の後に、SPEEDの登場がある。安室奈美恵山田優を生み出した「ナンバーワンよりもオンリーワン」を目指す沖縄アクターズスクールが注目されるわけですね。「自己愛を「虚像」として表現するアイドル」、つくられたアイドルの時代が終わろうとしていたんじゃないかな。そして、次なる「自分に持っているものを表現できるアイドル」を必要とする時代への過度期がいま、ってことですかね?

R:倖田來未なんかはアイドルではないかも知れないけど、最近のアイドルの傾向を現していますかね。そういう意味では、浜崎あゆみは踏み台だった。だって、造られる自分に違和感を感じつつ、過去のアイドル然とした「虚像」を蹴った。まあ、逆に徹底して虚像化されたとも言えるでしょう。
 でも、だから、今になって自分の立ち位置が不明瞭になって、レコード会社は、自然体の倖田來未に乗り換えてるんじゃないでしょうか?尾崎みたいな自己愛の権化は、かっこ悪いと思われてるようですからね。
 だから、大物アイドルが出てこないというより、世間が欲していないのかも。
AKB48ってのは、アキバ系を狙った市場の小さいアイドルですしね。

S:浜崎あゆみは、自分自身で自分自身を「虚像」にした部分がありますよね。浜崎くるみとしてデビューした当時はまったく売れませんでしたけど、女優としてデビューしたころから今の名前になり、「A Song for XX」等の、いわゆる絶望三部作で、女子中高生の支持を受けました。受ける歌詞というのは、おそらく、最先端ではいけない。みんなが気がつかないから。だから、ちょっと最先端からひいている感覚のものがよかったんでしょうね。「居場所」という言葉も、以前からキーワードとしてありましたけど、このころの中高生にはぴったりだったんでしょうね。アイドル多様化、またはアイドルなき時代に、再びアイドルの可能性を見せてくれたことはたしかでしょうね。ただ、これだけ芸能マスコミもインターネットも「みている」なかで、セルフ・プロデュースとはいえ「虚像」であることの限界があったのかもしれないですね。バラエティでも耐えられる、つまり「虚像」を「素」として感じさせてくれるアイドルとして、モーニング娘。やあややが出てきて、倖田來未が出てきたのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«ひきこもり・フリーター・ニート